抄録
本研究では,日本からタイのチェンマイとその近郊に移動した退職高齢
者へのインタビューと参与観察調査を主に用いて,高齢者の「ケア戦略」
に着目するこれまでの国際退職移動の研究が,外国に向かう第一段階の
地理的移動に主に焦点が当てられていたのに対して,本研究は,移住先か
ら出身国へ戻る段階の移動をめぐる高齢者の決定に着目する.本稿で明ら
かにするように,定住志向の高齢者においても,出身国へ戻る動きは明瞭
に認められる.ここでは,帰国に向かわせる移住先の物価高や為替の変動,
海外での医療保険制度や高齢者施設や在宅介護の制約といった構造的要因
を指摘する.次に,そのような構造的要因が存在するなか,帰国しないこ
とを選択した高齢者たちによる公的介護が期待できない状況下でのケア
をめぐる奮闘を,現地での連れ合いや世話人などを確保する個人レベル,
シェアハウスなど相互扶助関係を構築するインフォーマルなレベル,介護
のシステムを立ち上げようとする移住者グループの組織的なレベルから検
討する.これらの高齢者が帰国しない要因は様々であるが,本稿では,そ
れらの要因のなかで最も鍵となる移住先での社会関係資本に言及する.そ
してケア戦略の様式として「現地化」「自助」 「非専門家志向」 「組織化」
といった特徴を取り出していく最後に,移住高齢者にみられる現地での
ケア調達を「グローバルなケア収奪」の議論のなかに位置づけて考察する.