目的 頼山陽の母・梅颸(ばいし1760~1843)が26歳から48年間書き続けた『梅颸日記』により、家祭行事に関連する食品について検討した。 方法 家祭行事の日記記事を抜粋し、食品の種類、利用状況、入手法を調査した。 結果 当時頼(らい)家では、毎月の朔望 (21回)、季節ごとの佳節の祭(6回)、先祖忌祭(8~11回)、丁祭・時祭(それぞれ2回の計4回)が行われ、家祭行事は全部で年間39~42回にも上った。平均するとひと月に3~4回になる。これら祭の日記記載状況とそれに用いられた食品の記載状況は祭によってかなりの違いがあった。朔望の祭では当該月日の64%に記事が、また36%に食品の記載が見られ、佳節の祭では67%に記事、40%に食品が記されていたが、忌祭ではそれぞれ74%と5%、丁・時祭では37%と6%であった。すなわち、忌祭と丁・時祭での食品記載率が極端に低かった。忌祭と丁・時祭の献立資料が頼家に現存することから、日記には詳細を記載する必要が無かったためと考察した。使用食品は貰い物である場合が多く、送り主は家長である春水(梅颸の夫)の兄弟を初めとする親戚の外、友人知人、門人、また出入りの者からの各地の産物がみられた。晩年京都に住んでいた山陽からは虎屋の饅頭や「小倉野」という菓子が頻繁に送られていた。