抄録
高原のサナトリウムを舞台に、婚約者の近い死をまえにした主人公の心理を、緊張感ある文体と静謐な自然描写にたくした作家、堀辰雄の小説『風立ちぬ』は、2冊の美しい限定本が残されている。戦前の野田書房版(1938年)と第2次世界大戦終結の4年後、物資の乏しいなか上梓された細川書店版(1949年)である。まったく挿絵のない野田版に対して、細川版には15年間、フランス留学した洋画家、岡鹿之助の5点の挿絵がそえられた。その挿絵は登場人物や場面の情景描写ではなく、小説の5章からつたわる雰囲気を草花や蝶にたくした特異な絵画であった。ジロットNo.291という英国製の極細ペンで描かれた細密画は、その後の岡を、堀の文学世界のエンブレム(絵画的イメージ)を描く代表的画家にしていく。本稿では細川版『風立ちぬ』の挿絵制作を端緒にした画家と文学者の交流を、そのなかで書かれた1枚の堀の岡宛絵はがき(新資料)の文面を軸に紹介する。