抄録
【目的】本邦で柴田ら(1997)は65歳以上の在宅生活者が1年間に転倒する割合は総じて約20%であったと報告しており、そこから生じる器質的変化の寄与する影響は非常に大きい。平成19年度の国民生活調査によると、介護が必要となる原因として、脳血管障害、認知証、高齢による衰弱、関節疾患に次いで転倒・骨折が第5位に挙げられた。問診の際、転倒の受傷機転を聴取すると自己の身体機能を過大評価した結果、転倒・再転倒に至ったといった経緯を聞くことは少なくなく、加齢変化による運動・高次脳機能などの能力低下に加えて、体性感覚および固有感覚の情報処理が正常に機能していないことが推察される。高齢者の身体知覚に関する研究で正高(2000)は高齢者になるにつれて、身体の加齢変化を認識できておらず、身体の働きと知覚システムの間に相違が生じていると報告している。また、鈴木(2006)は転倒時の状況あるいは原因について報告しており、転倒の原因は男女ともに「つまずいた」が圧倒的に多く、次いで「滑った」あるいは「段差に気付かなかった」が続いている、としている。しかし、外的環境に対する知覚を調査したこれまでの研究では健常者(高齢者を含む)を対象にしたものが多く、また対象物に対する距離が知覚に与える影響を調査したものは少ない。今回我々は何らかの障害を有するものを対象に、対象物との距離の違いが自己身体認知に影響するのかを検討し、自己の身体認知が、現実の動作とどれだけ適合しているのかを明らかにすることとした。【方法】当院回復期病棟入院患者で機能的自立度評価法(Functional Independence Measure以下FIM)の移動(歩行に限る)項目が5点以上の患者14名(男性7名、女性7名 平均年齢72.43±11.15歳)を1.下肢疾患群、2.中枢神経疾患群(下肢疾患群以外の整形外科疾患を含む)と大別し、バーの跨ぎ課題を実施した。実施手順は次の通りである。まず被験者が立位の状態で7m先にあるバーの高さを、自分が跨ぐことができると思われる最大の高さに設定する。設定はバーの高さを験者が操作し、被験者はそれを見て目的の高さになったら申告するという方法で行った。その後申告したバーの高さを変えずに、バーを被験者の50_cm_前方に移動した。7m前方で申告した高さを修正する場合は、7m前方での高さ設定と同様の方法でバーの高さを変更した。バーの高さが決定された後、実際に跨ぎ動作を実施し、その高さを跨ぐことができた場合はさらにバーを上げ、失敗した場合はバーを下げるという手順を2回繰り返し、実際の跨ぎ動作能力の最大値を測定した。【説明と同意】臨床研究に関する倫理指針(厚生労働省)、個人情報保護法、ヘルシンキ宣言を遵守し、対象者には本研究趣旨を十分に説明、書面にて研究参加の同意を得た。【結果】跨ぎ動作1回目での成功率は、下肢疾患群において失敗する傾向がみられた(p<0.10)。跨ぐことができた最大値(以下、最大値)と距離別予測値との相関を比較した結果、7m予測値は両群ともに最大値と強い相関がみられたが、50_cm_予測値は下肢疾患群において最大値と相関がみられなかった。また、距離別予測値と最大値との誤差は、7m予測値で両群ともに誤差は少なく、50_cm_予測値では下肢疾患群で有意に誤差が大きかった(p<0.05)。【考察】下肢疾患群では、跨ぎ動作1回目において失敗する傾向がみられ、それにより日常生活の中で、新規の環境に遭遇した際につまずきによる転倒の危険性が高まることが推察される。中枢神経疾患群では、7mと50cmのそれぞれの予測値が近似しているが、下肢疾患群ではそれぞれの予測値が比較的乖離しており、かつ50cmでの予測値が実測値と離れていた。このことは、日常生活において、転倒の一要因となることが考えられる。【理学療法研究としての意義】本研究により、下肢疾患群が有意に自己身体認知に誤差が生じる可能性が示唆された。危険性を低くするためには、新たな自己身体認知を確立する必要性があり、最大能力を発揮できる動作方法を獲得する必要がある。そのためには、生活環境に限局した動作練習だけでなく、最大能力を知るための評価、練習を行う必要があると考える。また、動作方法の選択の一助として身体の一部を指標とし、判断を促すことも有効である。そして個々人に適した動作方法を決定し、習慣化させ、転倒予防に寄与していく。