抄録
今日、社会学の教育にあたっているすべての者が、ひとつの困難に直面している。親密圏を越えた全体社会に対する関心や想像力を、若者たちがほとんどもたないように見えるからだ。本稿は、こうした困難をもたらす要因自身を、社会学的に説明しようと試みるものである。言い換えれば、本稿は、社会学とその教育の可能条件を、社会学的に説明するための予備的考察である。第一に、原初的な共同体における呪術的な治療師の実践が、すでに、端緒的な社会学であることを示す。第二に、固有の意昧での社会学-一個の学問分野としての社会学-は、経験に対して完全に外在する超越的他者の視点を内部化したことで構成される、視点の重層化によってもたらされる旨、論ずる。第三に、いわゆる「オタク」は、この超越的他者の視点をめぐる謎に対して、短絡的で偽装的な回答を与えようとする試みのひとつとして解釈できる、ということを示すだろう。最後に、来るべき社会学のモデルを、知のキリスト教的な様式の内に求めることができる所以を論ずる。