資本、情報、モノ、ヒトが国民国家の境界を軽々と越境してつくりだす社会の流動状況は、国民国家の誕生とともに市民社会の学として誕生したさまざまな近代科学の枠組を揺るがしている。国民国家の制約を超えて、グローバルな視点で発想し行動することが、新たな指針としても推奨されはじめた。遠く離れた地域で起こっている森林伐採や河川汚染に敏感に反応し、見知らぬ社会で生起した人権侵害に注目していくという態度は、グローバル化時代の市民の行動基準となりつつあるのだ。環境保護や人権尊重は、現代世界の普遍的(絶対的)正義としての地位を確立した。これらのグローバルな基準は、いまや、正面から異議を唱え解体・転覆することが不可能なほど、現代世界における「正統性」を付与されている。こうしたグローバル化時代の人間観は、国民国家や民族、宗教、人種といった人間分節の虚構を暴露して、国家の拘束、文化の鋳型、情報のコントロールを超えて、主体的に選択し思考し行動する個人を措定した。もちろんこの種の個人を、西欧近代固有の人間観に過ぎないという批判は可能だ。しかし、オリエンタリズム批判の眼差しは、こうした非西欧近代の人間観を、差異を強調してユニークなものとして描くことに警鐘をならした。では、グローバル・スタンダードを無条件に受容するのでもなく、非西欧的ローカリズムをロマンティックに想像するのでもない、人間観はいかにして構想可能なのだろうか。この問題について整理し方向性を検討することが本論の目的である。
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