近代性の時間は「時間は未来から到来する」という未来優位的時間論であるとされる。田辺繁治はこれとは対極的なベンヤミンの「可能的過去」のなかに、未来の到来を見る。田辺は、過去の死者たち、事物、出来事を受け入れて、それらに込められた希望と要求に応答することに生き延びる可能性をみる。それは「死者と生者の共同性」として存在することである。
本報告では、このような「死者と生者の共同性」の可能性にむけて情動(アフェクト)論から考える。情動論では、我々の生の現実は、個の意図や主体性を超えて行為するなかで、他の身体と影響/作用しあいつつ常に生成され続けているとみる。死を含む時間というのは、身体に基づく自然誌的時間から過去を現在化しつつ生きている現実のうちにあり、現在性の出来事の記述においてのみ垣間見られる。
こうした具体的な記述を、南タイのフィールドにおいて私が深くかかわってきたある女性の死と弔いをめぐって試みる。「弔い」をめぐる記述は、情動論がめざす抽象的には容易には了解しがたい潜在性、生の流れに、具体的な「モノ―人」の連鎖からなる出来事を通して接近することである。死者を自らの中に生かす「弔い」を通して、私たちが生きる現実とは、現在生きている人や感覚器官をとおして知覚されるモノのみならず、死者や目にみえないモノが接続して、新たな局面を生成し続ける拓かれた営みであることが見えてくるであろう。
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