抄録
非日常から日常へと移行していく災害後の社会は、その災害が大きなものであればあるほど、そのような大災害からの日常への移行は「一回限りの出来事」の記述として位置づけられてしまう。一回限りの出来事の記述ではなく、何度も起こりうる出来事の記述として災害の社会学を構想しなくてはならない。そのうえで、災害と社会との関係について、阪神淡路と東日本の連続と不連続を記述することに社会学の社会的役割がある。そこで、「震災の記憶」という報告者の研究から、阪神淡路大震災と東日本大震災の連続と不連続を考えることが本報告の意図である。阪神淡路大震災の被災遺物を残す取り組みや、東日本大震災の被災遺物を残す取り組みには、地震学者など研究者からの働きかけが大きかった。しかし研究者が保存しようとすることと、われわれが被災遺物に対して、どのようなまなざしを向けているか、ということは同じではない。「被災遺物」は、われわれの人生や生活の時間軸において「あのとき」という時間の区切りを発生させる。その区切りによって、「あのとき」の「まえ」と「あと」を言葉にしていくことこそが、震災を記憶し、伝える行為だと思われる。