フォーラム現代社会学
Online ISSN : 2423-9518
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12 巻
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論文
  • 松岡 慧祐
    2013 年 12 巻 p. 3-16
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    地図は、近代的な世界や国家のイメージ、あるいは断片的でパーソナルな「道しるべ」としての役割だけでなく、流動化する「地域」のイメージを実体化するうえで重要な地域メディアとしての役割を担うようになってきている。それは行政上の「境界」にもとづいて地域を均質に区分する制度的な<地図>とは異なり、特定の主題に沿って選択された事物(地域資源など)の「分布」を一覧化することによって、かならずしも行政区画に縛られない多様な地域像をデザインする<マップ>として概念化することができる。現代社会では、このような方法で複雑性を縮減し、単層的な<地図>だけでは描きつくせない「(地域)社会」を多層的に表現しうる<マップ>の想像力が必要とされており、それによって人びとの社会認識は補完的に再構築されていくのである。そして、かつては専門化された事業や業務という意味合いの強かった地図づくりという営みは、このような<マップ>という自由度の高い表現様式を通じて民主化され、それはしばしば草の根の市民活動をとおして共同的に制作されるようになっている。こうして<マップ>は人びとの社会的な実践とむすびつくことで、オルタナティブな空間表現としてだけでなく、地域におけるコミュニケーションやネットワークを媒介するメディアとしての可能性を開き、地図の新たな社会性を浮き上がらせているのである。
  • 富永 京子
    2013 年 12 巻 p. 17-30
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本研究は、グローバルな社会運動において運動体間の連携がどのように行われるのかを問う。先行研究は「社会問題の被害者=主要従事者」「被害者以外の人々=支援者」と定義して分析を行うが、グローバルな社会運動は被害者と加害者の境界が曖昧であるために、主要従事者と支援者を判別することが困難である。本稿はサミット抗議行動を事例とし、グローバルな運動の中で主要な運動従事者が決定される過程と、運動主体間におけるレパートリーの伝達過程を分析することにより、グローバルな社会運動における運動体間の連携のあり方を考察する。具体的には、サミット抗議行動においてレパートリーの伝達がいかになされたかを参加者50名の聞き取りデータを基に検討する。分析の結果、本運動の主要従事者はサミット抗議行動が行われる地域で普段から活動する人々であり、レパートリーは毎回の抗議行動と同様に定例化・定期化されて行われる。しかし、主要従事者は定例化されたレパートリーを義務的に行う一方、設営や資源調達といった場面で自らの政治主張や理念を反映させることがわかる。グローバルな運動における運動体の連携に関する結論として、第一に、「場所」が主たる運動従事者を決定する要素となり、第二にレパートリー伝達をめぐって「前例」が大きな役割を果たしており、第三に主要な従事者は表立ったレパートリーだけでなく資源調達によって政治的主張を行うことが明らかになる。
  • 平井 太規
    2013 年 12 巻 p. 31-42
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    「第2の人口転換論」は「家族形成の脱標準化」や「社会的背景の変容」をも含意する。単に出生率が人口置換水準以下に低下しているだけでなく、多様な家族形成やその背景に家族観や価値観などの個人主義化が見られる状態を「第2の人口転換」と定義できる。こうした現象が東アジアにおいても生じているかの検証をする必要性が論じられてきたが、これに応えうる研究は少なかった。そこで本稿では、低出生率化している日本・台湾・韓国を対象にNFRJ-S01、TSCS-2006、KGSS-2006のデータを用いて、既婚カップルの出生動向、とりわけ子どもの性別選好の観点から、「家族形成の脱標準化」を検証した。分析対象は、「第2の人口転換」期(とされている年代)が家族形成期に該当する結婚コーホートである。このコーホートとそれ以前の世代の出生動向の持続と変容を分析した。その結果、日本ではバランス型選好から女児選好に移行し、確かに「家族形成の脱標準化」は見られるものの多様化までには至らず、台湾と韓国では男児選好が一貫して持続しており、「家族形成の脱標準化」は生じていないことが明らかになった。したがって東アジアにおいては、ヨーロッパと同様に低出生率化の傾向を確認できても「第2の人口転換論」が提示するような変容は見られない。
  • 平野 孝典
    2013 年 12 巻 p. 43-55
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、社会的統合が自殺観に与える影響を明らかにすることである。エミール・デュルケームによって社会的統合と自殺との関係が定式化された。しかしながら、彼はこれらを結ぶメカニズムについての議論を深めることはしなかった。この問題を批判したアンソニー・ギデンズは、社会的統合と自殺を意識・心理・態度によって媒介するモデルを提示する必要性を指摘した。フランク・ファン・チューベルゲンらによる「コミュニティ-規範メカニズム」は、自殺観という態度要因に焦点をあてることにより、この問題に取り組む理論として注目すべきものである。この理論には、社会的統合が自殺観に影響を与えるという仮定がおかれている。しかし、この仮定については経験的知見が乏しく、明らかになっていない点が多い。そこでJGSS-2006を用いて社会的統合と自殺観の関係を検討したところ、以下の知見が得られた。第1に、配偶者を失った人は自殺に肯定的な態度をとりやすい。第2に、子供のいない人は自殺に肯定的な態度をとりやすい。第3に、居住年数が短い人は、自殺に肯定的な態度をとりやすい。以上の結果は、コミュニティ-規範メカニズムの仮定が経験的に妥当であることを示している。
  • 岡村 徹也
    2013 年 12 巻 p. 56-68
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、グローバル企業の人材育成について分析することであるが、対象とするのはトヨタ自動車の企業内教育活動として会社設立の翌年に設置された企業内訓練校「トヨタ工業学園」である。具体的に注目するのは、トヨタの教育プログラムがトヨタという巨大組織の存立においてどのような役割を果たしているのかという点である。トヨタ工業学園の教育プログラムの有効性は、トヨタのニーズにどれだけ応えられているかと直接結びついている。それは単なる技能を養成するという機能的意味を持つに留まらない、トヨタという企業の組織文化に関わっているのではないか、というのが本稿の基本的視点である。トヨタ工業学園の関係者・OB・現役の学園生、社長を含むトヨタ経営者層へのインタビュー調査によって、トヨタ流の人材育成・教育プログラムがトヨタという組織にとって単に労働力生産の場としてのみ存在しているのか、地域社会においてトヨタの人材育成・教育プログラムがどのように寄与しているのかについて検討する。
  • 中井 治郎
    2013 年 12 巻 p. 69-81
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    2004年(平成16年)、その「文化的景観」が評価された「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産リストに登録された。これにより熊野三山をつなぐ参詣道も、「熊野古道」として多くの人々を引き寄せる観光スポットとして現代に蘇ることになった。しかし、2011年(平成23年)9月初旬、西日本を襲った台風12号は紀伊半島に特に甚大な被害をもたらし、我が国において平成以降最悪の水害となった。もちろん世界遺産を構成する各遺産の被害も深刻であり、なお復旧作業は継続中である。しかし、その復旧の現場では文化遺産をめぐる制度に対する様々な疑義や相対化の語りが聞かれる。本稿は、熊野の各文化遺産の復旧をめぐるこれらの語りを分析し、そこに災害前とどのような変容があるか、またその変容が何を意味しているのかを分析するものである。本稿では、モノが文化遺産化される際に、あらたな文脈に配置されることでそのモノの意味や価値が変容していくという文化遺産をめぐる再文脈化の視点からこれらの語りの分析を行う。そして平時にはグローバルな文脈である世界遺産制度やナショナルな文脈である国の文化財制度によって後景化しているローカルな文脈の価値や意味の、災害を契機とした再浮上を考察するものである。
  • 中森 弘樹
    2013 年 12 巻 p. 82-94
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、失踪者の家族の視点から「失踪」という事態を考察することである。これまで自然災害や海難事故、戦争状況下において生じる行方不明が一般的に注目を集め、捜索の対象となってきたのに対して、それ以外の状況で人が行方不明になるという事態はあまり着目されてこなかった。本稿では後者の事態を「失踪」として定義する。そして、残された家族たちが不確定な失踪者の生死をいかにして判断するのか、またその際にいかなる困難を抱えるのかを死の社会学の視座を用いて明らかにすることで、失踪者の客観的な死の危険性からは説明できない「失踪」の問題性を描き出すことを試みる。上記の目的に基づき、本稿では失踪者の家族にインタビュー調査を実施・分析した結果、以下の諸点が示唆された。まず、残された家族にとって失踪者の生死の線引きを行うことは困難であった。そのような状況では、たとえ失踪者の死の危険性が明らかでなくとも、家族たちは失踪者の生死が不確定であることに対して長期的な心理的負担を抱えることがあった。また、失踪者の生死の線引きには、家族たち自身の生死の判断のみならず、警察等によって客観的に判断される失踪者の生死や、失踪者の法的な生死といった異なる生死の次元が関わっていた。これらの生死の諸次元が食い違うことで、捜索活動の困難や失踪をめぐる社会手続き上の負担、ならびに失踪宣告をめぐる葛藤といった問題が家族たちに生じていた。
特集 3.11以前の社会学―阪神淡路大震災から東日本大震災へ―
  • 荻野 昌弘
    2013 年 12 巻 p. 95-97
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
  • 今井 信雄
    2013 年 12 巻 p. 98-103
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    非日常から日常へと移行していく災害後の社会は、その災害が大きなものであればあるほど、そのような大災害からの日常への移行は「一回限りの出来事」の記述として位置づけられてしまう。一回限りの出来事の記述ではなく、何度も起こりうる出来事の記述として災害の社会学を構想しなくてはならない。そのうえで、災害と社会との関係について、阪神淡路と東日本の連続と不連続を記述することに社会学の社会的役割がある。そこで、「震災の記憶」という報告者の研究から、阪神淡路大震災と東日本大震災の連続と不連続を考えることが本報告の意図である。阪神淡路大震災の被災遺物を残す取り組みや、東日本大震災の被災遺物を残す取り組みには、地震学者など研究者からの働きかけが大きかった。しかし研究者が保存しようとすることと、われわれが被災遺物に対して、どのようなまなざしを向けているか、ということは同じではない。「被災遺物」は、われわれの人生や生活の時間軸において「あのとき」という時間の区切りを発生させる。その区切りによって、「あのとき」の「まえ」と「あと」を言葉にしていくことこそが、震災を記憶し、伝える行為だと思われる。
  • 金菱 清
    2013 年 12 巻 p. 104-113
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    何万にものぼる死者の行方は?未曾有の災害で家族の命を断たれた遺族はどのように日常に戻っていけるのだろうか?本論文では、東日本大震災の被災者が集住する仮設団地において、"過剰"に住民が介入するかのようなコミュニティをとりあげることで、どのようにコミュニティが生を中断せざるをえなかった「彷徨える魂」を鎮めることができるのかについて、被災コミュニティの文化的・宗教的な装置の側面を社会学的に明らかにする。阪神淡路大震災後の仮設住宅では、孤独死やアルコール依存症者が発生した。この深刻な事態を教訓として、宮城県名取市の仮設住宅では、自治会レベルでさまざまな対策を講じてきた。それらの取り組みをまとめると、ある意味「過剰な」コミュニティ運営をしている自治会が浮かび上がってくる。ここで過剰なコミュニティ運営とは、個人の生について住民組織が過度なまでに介入していることを指す。ただし、建物倒壊による圧死が死因の多数を占めた都市直下型地震の阪神淡路大震災とは異なって、東日本大震災では津波特有の遺体の見つからない行方不明者が多い。この過剰なコミュニティ運営は、生死のわからない彷徨える魂に対処する(ホカヒする)ための文化的社会的装置であると考えられる。本論では、大規模災害で生じる無念な「死」に対して、民俗学・宗教学とは異なる視角から、コミュニティの役割について社会学的に探ることを目的とする。そのことを明らかにすることによって、犠牲者を未だ彼岸の「死者」として扱えず、此岸に残された人びとの社会的生に対する積極的な位置づけをおこなう。
  • 山下 祐介
    2013 年 12 巻 p. 114-120
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿では、東日本大震災を広域システム災害としてとらえていく。我々の暮らしは様々なライフラインや生産流通の巨大システムとの関係なしに成り立たない状態にある。広域システムはそれが機能している限り、豊かな暮らしと安心/安全な環境を約束する。しかし、いったんそれが壊れると被害は大規模化し、復旧が難しくもなる。それどころか、このシステムの中に含まれる中心-周辺関係が、システム再建の過程で崩壊以前よりも強い形で現れることとなる。広域システムにはインフラや経済的側面だけでなく、家族、行政、政治、メディア、科学といった社会的な局面もある。これらの巨大で複雑なシステムが壊れることで、人間の無力さが現れ、被災地は周辺化した。しかし今回は中心としての東京さえもが無力化した。こうした事態は1995年阪神・淡路大震災の時には見られなかったものである。2011年東日本大震災までに何がおきたのか。その解を、広域システム内での人間とコミュニティのあり方のうちに考えていく。
  • 三上 剛史
    2013 年 12 巻 p. 121-128
    発行日: 2013/05/18
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本報告では、阪神・淡路大震災から東日本大震災へと続くリスク社会の状況を、社会理論構想における"ディアボリックなもの"(分離と個別化を生む契機)と"シンボリックなもの"(結合と連帯を生む契機)という観点から検討したい。近代社会はシンボリックな社会構想の優越によってリスクを"飼い慣らし"、また"愛好"してきたが、現代社会ではそのシンボリズムが綻びつつあり、「新しいリスク」の登場とともにディアボリックな側面が顕著になりつつある。今や、近代的シンボリズムが主導してきたような形での、シンボリックなものとディアボリックなものとのバランスは崩れつつあり、リスク社会の"危険"に端的にそれが現れている。3.11で現れたディアボリックなものの開口部、とりわけ原発災害は、その証左となっている。原発災害で顕わになったのはシンボリズムの限界である。シンボリズムから出発することは、社会モデルとして限界があるのではないか。リスク社会と向きあうためには、ディアボリックなものの直視という経路を経なければならない。"きちんとした"リスク社会になるためには、新たなディアボリックな側面から目を逸らすことはできない。ここではそれを、ジンメルからルーマンに流れる"結合は同時に分離である"という理論的視点、「信頼」の両義性、「リスクと危険の区別」、「監視社会」の意味、などと関わらせることによって検討したい。
Abstracts
編集後記
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