本稿は、19世紀フランスの女子教育の転換点とされる女子中等教育法(1880年公布)後に展開されたカミーユ・セーによるユニヴェルシテ批判とそれに対する反批判により、ライシテ思想の対立に着目する。セーにとって女子中等教育はすべての娘に対して平等に、そして厳格なライシテのもと行われるべきであった。しかし、法に従って学校を実際に整備する過程においてライシテの徹底が不十分であるとするセーの意見は退けられる。その議論の内容、推移を明らかにすることにより、女子中等教育の制度化の過程において複数のライシテ思想が対立していたことを指摘する。