ラテンアメリカ・レポート
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資料紹介
石田智恵 著 『同定の政治、転覆する声―アルゼンチンの「失踪者」と日系人』
坂口 安紀
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2021 年 37 巻 2 号 p. 85

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1980年代までラテンアメリカの大半の国は軍事政権下にあった。なかでもアルゼンチンは、軍事政権による反政府活動家の大量誘拐や虐殺、失踪した子どもたちを取り戻すために立ち上がった母親たちによる「五月広場の母」の運動で知られる。母親たちの運動はその後のアルゼンチン政治に影響を与え、国際的人権運動の先駆けとなった。あまり知られていないが、強制失踪者のなかに17人の日系人の若者も含まれていた。本書は、それら日系人失踪者に焦点を当てる。

本書は二部にわかれている。第一部では、アルゼンチンの軍事政権下の国家による暴力の実態、そして民主化後のその社会的記憶の再構築と人権回復の試みについて、それぞれの行為の意味を読み解きながら考察する。第二部では、日系人失踪者らに焦点を当て、遺族や友人、日系人コミュニティへの聞き取り調査、日系新聞の資料分析などから、日系人の若者たちが反政府派活動にかかわっていった理由と、彼らの失踪が長年語られなかった背景について分析する。

アルゼンチン軍政による大量虐殺は、軍事政権が国家転覆分子と選別した人々を標的とした政治的要因によるものであり、ナチスやルワンダのように人種や民族を軸としたものではなかった。また、アルゼンチンでは日系人に対する人種差別は存在しないといわれている。にもかかわらず、筆者が日系人失踪者を取り上げるのは、彼らが反政府活動にかかわった理由や、彼らが長年忘れ去られた存在であったことに、日系人であることが重要性をもつからである。

1970年代当時日系二世だった彼らが、「善良で勤勉で従順なハポネス(日本人)」のイメージを守ろうとする親世代(一世)とは異なり、「ただのアルゼンチン人」として自身を同定するために反政府派活動にのめりこんでいった側面が指摘される。また、彼らの失踪が数十年にわたり知られることがなかったのは、「お上に抵抗することは恥ずべき」とする日系コミュニティの不文律において彼らは恥ずべき存在とされ、家族やコミュニティが彼らの失踪について語ることがなかったからだという。その意味で、17人の日系人失踪者は、軍事政権からも、また日系コミュニティからも二重に消し去られた存在だったと、筆者は指摘する。

近年世界各地で民主主義の後退や権威主義の広がりがみられる。権威主義体制下で、反政府派政治家や市民が国家による暴力の標的とされている。すべての暴力装置を独占する権威主義政権が人権を侵害する状況に対し国際社会はどうすべきなのか、そのような状況における内政不干渉あるいは国際制裁をどう理解すべきか、という難しい問題を考えるとき、歴史は多くの示唆を与えてくれる。緻密な概念整理がされた、良書である。

 
© 2021 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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