マーケティングジャーナル
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特集論文 / 招待査読論文
産業振興・ベンチャー支援から「起業の民主化」へ
― 福岡における起業コミュニティの形成 ―
二宮 麻里大田 康博三井 雄一
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2024 年 43 巻 4 号 p. 43-55

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Abstract

本研究では,地方中核都市における起業コミュニティ形成の先端事例として福岡市をとりあげる。1980年代から現在までの文献資料を収集し,福岡市における起業支援で重要な組織や個人を特定して半構造化インタビューを行い,データを時系列で整理した結果,以下の事実が分かった。同市の起業活動は,福岡市の行政支援だけではなく,1980年代以降に福岡県が整備した産業振興・ベンチャー支援インフラも活用して展開された。福岡市では,起業が誰にとっても身近なキャリアの選択肢となる「起業の民主化」を進め,そこでは,官と民,県と市などの組織的な境界を越えて活動する「越境者」が重要な役割を果たした。同市による「起業の民主化」アプローチは,高成長スタートアップを選択的に支援すべきとする海外の起業エコシステム研究の主張と対照的だが,起業が不活発な社会における一つの選択肢を示している。

Translated Abstract

This study examines the process of formation of entrepreneurial communities in Fukuoka City as a leading-edge case study of a regional core city. We collected literature from the 1980s to the present, identified organizations and individuals important in supporting entrepreneurship in Fukuoka, conducted semi-structured interviews, and organized the data in chronological order. Entrepreneurial activities in Fukuoka were developed through both administrative support and through industrial promotion and a venture support infrastructure that has been developed by Fukuoka Prefecture since the 1980s. “Democratization of entrepreneurship” was realized in Fukuoka, where entrepreneurship became a familiar career option for everyone, with “boundary spanner” playing an important role by crossing boundaries between the public and private sectors, the prefecture and the city, and other entrepreneurial communities. The city’s “democratization of entrepreneurship” approach represents an option in a society in which entrepreneurship is inactive.

I. はじめに

現在,日本各地の地方自治体が起業を支援する制度や施設を急速に整備している。しかし,日本は他国に比べ,起業に関心を持つ層が依然として薄く,起業が不活発な状況にある1)。特に地方では,起業関心層の比率が首都圏よりもさらに低い(Takahashi, 2013)。地方都市において起業が活発な社会を作るには,まずは起業関心層を厚くする必要がある。

起業支援策を議論する上で,近年,起業エコシステムという概念が注目されている。その定義は様々だが,多くの論者は,ベンチャーの創造や成長を促進するために資源を最適配分する,地域内のダイナミックなシステムを想定している。こうした研究では,高成長ベンチャーへの選択的支援が重要と考えられており,高成長ベンチャー輩出の条件として,起業コミュニティの醸成が指摘されている(Wurth, Stam, & Spigel, 2022)。

起業コミュニティは,起業家,ベンチャーキャピタル(VC),法務などの専門家,大学,起業支援担当者など,様々な立場の個人や組織によって構成される。経済的交換により利益を最大化しようとする市場的関係とは異なり,コミュニティでは,メンバーが価値を共有して結びつき,共通の活動を通じて技能,知識などを深め,他のメンバーに資源を無償で提供する。資源に乏しい起業家でも,起業コミュニティに加われば,必要な外部資源に容易にアクセスできる。起業コミュニティの形成は起業を活発化する上で極めて重要と考えられるが,その形成プロセスに関する事例研究はほとんどない(Feldman, Siegel, & Wright, 2019)。

本稿では,地方中核都市の先端事例として,福岡市における起業コミュニティの形成プロセスを分析する。福岡市は2012年以降,起業関心層を拡大する活動をおこない,2013年には開業率を7.1%(政令指定都市で1位)に引き上げ,その後も高い水準を保っている。そして,2014年に国家戦略特区「福岡市グローバル創業・雇用創出特区」2),2020年には「グローバル拠点都市」3)に選定された。福岡市の取組の特徴の一つは,起業が誰にとっても身近なキャリアの選択肢とする,いわば「起業の民主化」4)を進めようとしたことである。市の支援を受けて成長を遂げた「ユニコーン」は現時点でまだ登場していないが,「スタートアップ都市」として広く注目を集める福岡の歴史的展開を理解することは重要であろう。

以下,IIにおいて本研究の方法を説明する。IIIでは福岡県の産業振興とベンチャー支援の取組を中心に分析し,IVでは福岡市の起業支援が拡充される過程について述べる。

II. 研究方法

本研究では,1980年代から現在に至る文献資料(新聞記事,ウェブマガジンなど)を収集・整理した上で,現在の福岡市の起業支援で重要な位置を占める組織や個人を特定した。また,インタビューやスタートアップ関連イベント(明星和楽等)においても調査対象について照会した。リストアップした福岡県・市の起業家,起業支援関係者のべ40名に対し,1時間~1時間半のオンラインないし対面での半構造化インタビューをおこなった(実施期間は2020年3月から2023年11月まで)。ほぼ全てのインタビューに共著者全員が同席し,内容を録音した上で文字起こしをした。インタビュー・データと文献データの齟齬がないかを確認し,データ全体を時系列で整理し,重要な個人・組織の活動,個人・組織間の関係,成果などを関連付けた。さらに,事実関係が正しいかをチェックするため,インタビュー相手と本論文のドラフトを共有した。

データ分析の結果,福岡市で起業が活発化した背景には,1980年代以降,福岡県が整備した産業振興・ベンチャー支援インフラの活用があり,その活用は市内外の起業支援関係者の広範な連携によって実現していた。そして,組織,業種などによって分断されていたコミュニティの境界を越えて活動した「越境者」が,広範な連携を引き起こしたことを発見した。

III. 福岡県による産業振興とベンチャー支援

1. ベンチャー支援の源流

1972年,福岡市は政令指定都市となり,1975年に山陽新幹線が博多駅まで延伸されると,九州経済の中枢都市として著しい成長を遂げた。しかし,福岡市の成長は,主として大企業の支社・支店の設置およびその波及効果によるものだった。1980年代の福岡市では,会社企業の全事業所数,従業者数のいずれにおいても「支所・支社・支店」が半分という高い割合を占め,1984年度の所得ベース(法人市民税の法人税割額)では,6割程度が市外に本店のある支店であった。市内の小売業,サービス業の成長も,支店関連需要に依存していた。そのため,景気下降時に支店が閉鎖されると福岡市全体の経済活動は停滞し,市の税収は減少した(Uno, 1986)。こうした状況から脱却するには,福岡市で起業して成長する企業を輩出することが不可欠であった。

1980年代から始まった政府のベンチャー支援策を受け,福岡市でも地元銀行がベンチャーへの支援を開始した。1983年,福岡相互銀行(現,西日本シティ銀行)頭取四島ししま司氏は,同行との取引の有無に関係なく,福岡の若手経営者約20名を集めて勉強会をはじめ,そこに江頭匡一氏(ロイヤル),北田光男氏(ベスト電器)等が集まった。また,同年,福岡相互銀行は,九州で初めて,日本合同ファイナンス(現,ジャフコグループ)と共同でベンチャー企業向けに投融資するベンチャーキャピタル(九州キャピタル)を設立した。勉強会メンバーの要請があれば,融資や人材派遣,株式引受等,経営全般を指導した(Nikkei Business, 1983)。

九州キャピタルと顧問先企業の上場に取り組んだのが,当時,等松・青木監査法人(現,有限責任監査法人トーマツ。以下,トーマツ)公認会計士の古賀光雄氏5)だった。古賀氏は,「経済的基盤が育たないと地域は豊かにならない,そのためには地域に上場企業が必要」との信念から,自発的に九州各地の新聞社や銀行に呼びかけて株式公開セミナーを始めた。当時,地方銀行のほとんどは,預金高や貸出金残高を業績の評価指標としていて,上場に関心を持っていなかったが,「銀行は,何社融資先を上場企業にまで育てたかを誇るべきではないか」と説得した。

1980年代後半からは,通商産業省(以下,通産省)地方局がまとめ役となって,全国各地に「ニュービジネス協議会」を設立し,ベンチャー企業を育成しようとした。九州では,1987年に九州ニュービジネス協議会6)が発足した。同時期に通産省が新しく発足させた全国コーディネーター事業を九州ニュービジネス協議会が受託し,過去の実績から古賀氏がコーディネーターに認定された。彼は,民営化したばかりで新規事業を模索していたJR九州,九州通商産業局とともに,福岡のベンチャー企業の発表会を企画し,月に一度,博多駅の居酒屋に地場有力企業を集めた。「飲みながら食べながらの賑やかな会」で盛況となり,その会場は居酒屋からホテルへと移された。

古賀氏は,「ベンチャー企業は経済界の子供。子供のいない社会が成長しないようにベンチャー企業のいない地域は成長しない。地域からベンチャー企業を育成するには,地元の大企業,中堅企業,行政,地銀の協力無くしては難しい。『おらが村のベンチャーはおらが村で育てる』活動が必要」と説きながら,九州各県の商工関連部署,地方銀行を巻き込み,鹿児島,熊本,宮崎,大分にも九州ニューベンチャー協議会の活動拠点を広げていった7)

2. 麻生県政下での新施策(1995–2011年)

福岡県は,全国の地方自治体でいち早く起業支援に取り組んだ。1995年4月,通産省OBで特許庁長官を経験した麻生渡氏8)が福岡県知事に就任したことがその契機だった。当時,バブル経済が崩壊し,民間銀行は不良債権を抱えて資金的余裕を失い,日本全体の開業率は低迷していた。「ベンチャー企業を育てられない経済は活力を失う」との危機感をもっていた麻生知事の下で,県は「創造的中小企業創出支援事業」制度によってベンチャー企業への直接投資を開始した。しかし,営利事業への投資判断は難しく,県が投資した企業数は31社にとどまった。この経験を通じ,麻生氏は,「ベンチャー企業の育成は民間主導で実現すべき」との結論に達した(Aso, 2001)。

活路を見出すべく,県がベンチャー企業育成のあり方について相談したのが古賀氏であった。彼は,「ベンチャー企業と企業とのビジネスマッチング会をしてはどうか」と提案し,これを受けて,県は1999年に「フクオカベンチャーマーケット(FVM)」を開始した。FVMは,登壇企業が資金,市場,人材,技術など,必要とする支援内容を報告し,その場で参加企業と商談する「公設民営型マーケット」として発展した9)。さらに,FVMへの参加企業を募ろうと,任意団体としてフクオカベンチャーマーケット協会(現,福岡県ベンチャービジネス支援協議会)が立ち上がった。麻生知事も会員集めに協力し,野村證券をはじめとする三大証券会社やベンチャー投資のジャフコ,三井物産などの商社,監査法人など160社を組織化した。地元企業や金融機関だけではなく,証券会社や総合・専門商社までも巻き込んだ幅広い業種・規模の民間企業とベンチャーとのマッチングは,全国的に見ても珍しいものだった。事務局を福岡県商工部とし,古賀氏はその企画・運営を担った。また,同じ1999年には,任意団体「D2K(デジタル大名2000)」が発足した。東京で成功したベンチャー経営者を招き,福岡のエンジニアと交流するイベントが始まり,福岡県は事務局となった10)

1990年代後半,福岡では,証券取引の東京一極集中化による福岡証券取引所(福証)の地位低下が問題となり,1998年に地元経済界,行政が一体となって福証の活性化を進めようと「福岡証券取引所活性化推進協議会」が設置された。そして,2000年には,ベンチャー企業の資金調達の場として,東証マザーズよりも上場基準を緩和した「Q-Board」が福証で開設された11)。しかし,ディー・ブレイン証券(当時)担当者としてQ-Board上場株式の引受業務を手掛けていた岸原としひろ氏によれば,証券会社の多くは,ベンチャー企業の株式は流動性が低いため新規株式公開を引き受けても収益性は低いと判断し,主幹事になろうとしなかったという12)。また,ベンチャー企業にとって上場準備の負担は重く,上場まで至らないことが多かった。そこで2003年に,福岡県と九州電力やコカ・コーラウエストジャパン,ゼンリン,地銀など地元企業が中心となって九州ベンチャーパートナーズ(KVP)を設立し,合計30億円のファンドを組成し,地域密着型投資を進めようとしたが,投資回収が見込めるような地場企業は見つからず,投資事業は軌道に乗らなかった。この間,古賀氏は,FVMやQ-Boardに携わりながら,歴代の九州経済産業局長,大手証券会社福岡支店長(のちに取締役となる者も少なくなかった)との情報共有を深め,彼らの異動後も1年に1度は交流し,九州のベンチャー企業を紹介し続けた。

3. IT産業とクリエイティブ産業の一体的振興

麻生知事は,インターネットが普及すれば,文字,画像,映像と音楽が一体となったコンテンツへの需要が飛躍的に高まることを予想し,その先端集積を作ろうと,1998年,福岡県主導で「マルチメディア・アライアンス福岡(MAF)」を発足させた。これは,IT技術とデジタルコンテンツを組み合わせる産官学連携組織であった13)。折しも,1990年代後半から「ITバブル」がはじまり,天神地区西側の大名地区にネット系IT企業が相次いで立地し,「大名バレー」と呼ばれた。

1990年代後半から大名地区に集まったのは,ネット系IT企業ばかりではなかった。もう一つの大きな分野は,広告や出版業に関わるクリエイティブ分野であり,レベルファイブなどのゲームソフト開発会社も続々と誕生していた。こうしたクリエイティブ産業を振興するため,県は1997年に福岡県産業デザイン協議会を設置し,人材育成のために1998年にデジタルハリウッド福岡校を誘致した。やがて,大名地区からCG,ゲーム,アニメーションなどに通じた若いクリエイターやエンジニアが輩出されるようになった。さらに県は,1999年に「福岡デザインアワード(FDA)」を,2001年には「アジアデジタルアート大賞展FUKUOKA(ADAA)」を創設し,デザイナーやクリエイターが活躍する舞台を整えた。

2007年,県は,日本で誕生したプログラミング言語Rubyルビー14)に注目し,その実用化を情報政策課に担当させた。しかし,麻生氏は,ソフトウェア産業振興の担当は技術的な部署ではなく,ビジネスを推進する部門がふさわしいと考え,管轄部署を商工政策課(担当:中島賢一氏15))に変更した。中島氏は,構造計画研究所出身で,プログラミングやソフトウェア業に精通していた。当初は,施策の対象をRubyに限定することに懐疑的だったが,福岡のソフトウェア業者の6割が下請受託だけではなく顧客への提案もしていることを知り,迅速な開発を可能にする軽量プログラミング言語Rubyは地元の業者の武器になる,と考えを改めた16)。以後,彼は,Rubyのプロモーションとコミュニティ形成のため精力的に活動した。

同じく2007年に,民間主体で任意団体「Rubyビジネス・コモンズ(RBC)」が立ち上がり,最首さいしゅえいひろ氏(元イーシー・ワン代表取締役,現,グルーヴノーツ代表取締役)が代表に就任した。最首氏も中島氏と同様に「コミュニティがテクノロジーをリードする時代」の到来を察知し,Rubyのコミュニティ形成に尽力した(Takahashi, 2008)。翌2008年には,県は「福岡Rubyビジネス拠点推進会議」を発足させ,2009年,「フクオカRuby大賞」を創設した。こうして,日本最大のRubyのコミュニティが誕生した。さらに,県は2010年,Ruby開発者まつもとゆきひろ氏をセンター長とする「福岡県Ruby・コンテンツ産業振興センター」をJR博多駅前に開設し,福岡の企業が彼の指導を直接受けられるようにした。2012年には,Rubyをさらに軽量化した組込み用プログラム言語「mruby」(エムルビー)の開発がスタートした。

クリエイティブ産業においても,ITソフトウェアは重要な技術の一つであった。そこで県は,2012年に「福岡Rubyビジネス拠点推進会議」と「福岡コンテンツ産業振興会議」(MAFの後継組織)を統合し,「福岡県Ruby・コンテンツビジネス振興会議」を発足させた。翌2013年に創設された第1回「福岡ビジネス・デジタル・コンテンツ賞」は,起業家がアプリ・ウェブサービスを発表する場になった。

以上のように,福岡県は,ベンチャーと,金融機関や地場有力企業など,多様な企業とのマッチングの場を作り,またITエンジニア育成だけではなく,クリエイティブ産業の人材育成のための施設と組織を整備した(図1)。FVMや福岡県Ruby・コンテンツビジネス振興会議の活動は,2011年の麻生氏の知事退任後も空中分解することなく継続した。そこに関わった人々の経験や組織は,福岡市による起業支援において重要な意味をもつこととなる。

図1

福岡県・福岡市によるIT産業とクリエイティブ産業振興(1993年–2016年)

出典:著者作成。

注:一重囲みは福岡県主体,二重囲みは福岡市主体,破線囲みは民間主体で設立。

IV. 福岡市による「起業の民主化」への取組

1. 福岡市における産業振興とベンチャー支援

2010年代までの福岡市は,福岡県ほど産業振興や起業支援を積極的に手掛けていたわけではなかった。1990年に政府から認定された知的クラスター創成事業では,市西部の埋立地を「福岡ソフトリサーチパーク(FSR)」(早良区百道浜)として整備し,大手電機メーカーを含む110社の情報関連企業を誘致し,約6,500人の研究者・技術者が従事する開発拠点とした17)。1995年には,FSRの中核研究機関として,情報システムやナノテクノロジーの技術開発をおこなう「財団法人九州先端科学技術研究所(ISIT)」(基金2億5,000万円。福岡市の出資比率は83.3%)を設立した。これらは大学等研究機関のシーズを事業化しようとしたものだったが,研究機関の知的財産を商業化するためのノウハウが十分ではなかったため,期待通りの成果はすぐには得られなかった。

福岡県と連携していた古賀氏は,自身が携わるFVMの知名度が高まるにつれ,「博多商人の街である福岡市こそ,もっと積極的に創業支援に取り組むべきだ」と考え,福岡市長山崎幸太郎氏に直談判した結果,2003年にベンチャー経営者を支援する「福岡市創業応援団」事業が始まった18)。これは,地元の経営者がベンチャー企業経営者に直接助言するプログラムであり,川原健氏(ふくや)や,古賀氏が上場支援をした経営者である村田邦彦氏(ピエトロ),小山田浩定氏(総合メディカル)他,約60名を集めた。

2. エンジニアコミュニティから「明星和楽」へ

2000年代のITソフトウェア業界では,従来のベンチャーとは異なる起業家やコミュニティが生まれる条件が形成されつつあった。その理由の一つには,インターネットが高速化した結果,ネットワーク経由で複数のエンジニアが同時並行でプログラム開発ができるようになり,エンジニアによるOSS(Open Source Software)19)運動が広まったことがあった。OSSコミュニティではソースコードは公開されていて,「オープンソース,オープンマインド」という価値観でプログラムを改良する。つまり,OSSコミュニティは,自発的な貢献者による,自律分散型組織だった(Weber, 2004)。

それまでの日本のITソフトウェア業界は,OSSコミュニティとは対照的な状況にあった。日本ではITソフトウェア業の売上の8割を企業のシステム開発が占めており,そこでは元請けの大手システム会社が下請会社にシステム開発を委託するため,ソースコード等の著作物は大手システム会社に帰属していた(Takeshita, 2020)。そして,地方のITソフトウェア企業のほとんどは,付加価値の低いシステム開発の受託者であり,それは福岡も例外ではなかった。

しかし,2000年代になって写真の代わりにコンピュータで描かれた画像がホームページ上で利用されるようになると,デザイン事務所が企業などのホームページ制作を手掛け,Webサイト運用やプロモーションも企画するようになった。さらに,インターネットを通じた動画配信が始まると,音楽や動画制作も顧客から依頼されるようになった。こうした新たなサービスの開発ではIT技術が重要になり,Webで提供するサービスには分かりやすく美しいUI(User Interface)デザインも求められた。その結果,クリエイターとエンジニアが相談しながらWebサービスを設計する機会が増えた。これは,日本においても,エンジニアが,クリエイターといった様々な専門家と協働できる関係づくりを必要とするようになったことを意味していた。

こうした中,エンジニアとクリエイターを架橋するコミュニティを立ち上げたのが,派遣プログラマとして働いていた橋本正徳氏だった。彼は,2004年にソフトウェア会社ヌーラボを創業し,エンジニア,デザイナー,起業家等,200~500人程度が集うイベントを開催し,ITやソフトウェアの範疇にとどまらないコミュニティを運営していた。

2008年,そのコミュニティ運営メンバーの1人として村上純志氏20)が加わった。村上氏は,橋本氏が運営するコミュニティに参加し,それまでの価値観が覆ったという。

「それまでの僕は,エンジニア,プログラマの価値は,要は自分のスキル,他の人が持ってないスキルが給料になると思っていたんです。だから他の人には教えない。スキルは自分だけのものだと思っていた。ところが,ここ(このコミュニティ:著者注)では自分が調べたり,夜なべして資料を作ったりしたものを,みんな楽しそうに共有していて,それがカルチャーショックというか,ショッキングで。価値だと思っていたものが覆されるような感じだったんです」21)

そして,橋本氏と村上氏は,コミュニティ形成において重要なことは,第一に,見返りを求めない「ギブアンドギブの精神」であり,「とにかく自ら積極的に動いてコミュニティに貢献する人の存在が重要」だということ,第二には,「多様性」だという考えを共有した(Hashimoto, 2021, pp. 117–118, p. 125)。

2003年に福岡県が「世界最高水準の技術者養成」を目的として産学連携で「高度IT人材アカデミー」(現,NPO法人AIP,以下AIP)を設立していたが22),2006年に資金的な問題から存続が危ぶまれ,橋本氏は,今後の運営について福岡県から相談を受けた。彼は,それまでAIPが実施していたような,講義主体でスキルを一方的に教えるような人材教育ではなく,受講生同士が教え合うようなコミュニティを作ることを提案していた。エンジニアにコミュニティが必要であることを実感した村上氏は,AIPに就職し,古いマンションの狭い一室に「AIPカフェ」を作った。その目的は,各コミュニティの拠り所を作ることにあった。村上氏は,会費さえ支払えば誰もが24時間365日気軽に利用できるように,運用ルールを決めないという方針でAIPカフェを運営した。従来のITコミュニティの活動には,プログラム言語別勉強会のように明確な目的をもつものや,D2Kのように主催者が企画するイベントが多かったが,AIPカフェは,「誰のものでもない,誰もがやる,やれる,何かを自分で始められる」場になることを目指した。

AIPカフェは,せいぜい10~15名程度が集まることができる程度の広さで,間仕切りがない。こうした空間では,隣の人が何をしているかが分かり,時には手伝うこともできるため,利用者の間で一体感と交流が自然に生まれた。既存のコミュニティの境界線をなくそうと,橋本氏と村上氏は,あえてビジョンやルールを掲げずに音楽イベントを開催した。その結果,様々なコミュニティが自然発生的に立ち上がり,やがてAIPカフェには,県内外のエンジニア,デザイナー,行政職員,学生などが集うようになった。こうした経験を踏まえ,橋本氏と村上氏は,さらに広いジャンルから人々を集めようと,2011年,「クリエイティブとテクノロジーの祭典 明星和楽」を企画した(Yoshida, Ninomiya, Mitsui, & Ota, 2023)。

3. 高島宗一郎氏の福岡市長就任(2010年)

明星和楽の開催に先立つ2010年11月,史上最年少の36歳で高島宗一郎氏23)が福岡市長に当選した。彼は,福岡を「アジアのリーダー都市」へ押し上げることを選挙公約の一つとしていた。また,自分と同じ若い世代のチャレンジを後押しするような施策をしたいという考えもあった。アマゾンやスターバックスを生み出したアメリカのシアトル市を視察した高島市長は,福岡市からグローバル企業を生み出せる可能性はあると確信し,スタートアップ支援を福岡市の成長戦略の中核に据えた。

橋本氏と村上氏は,新市長との面識はなかったが,「同年代の若い市長だから,自分たちの活動を理解して参加してくれるのではないか」と考え,「細いつてをいくつかたどって」コンタクトをとった。これは,高島氏にとって時機を得たものであり,彼は第1回の明星和楽に参加し,2012年の第2回明星和楽では「スタートアップ都市ふくおか宣言」をおこなった。民間の一イベントで市の宣言が出されるのは異例のことだった。このように高島氏は,まずスタートアップ支援という施策全体の方向性を定め,賛同者を増やしてムーブメントを起こし,後に活動の受け皿となる公的制度を段階的に作っていった(NewsPicks, 2016)。

4. スタートアップカフェとFGNの開設(2014年,2017年)

福岡市は2014年に「グローバル創業・雇用創出特区」に認定されたものの,実際の起業支援は十分とはいえなかった。2013年度,福岡市「創業相談窓口」への相談件数は月平均25件程度に低迷していた24)。そこで福岡市は,新たな起業関連拠点施設の設置を決め,その運営について村上氏に相談した。彼は,AIPカフェ運営の経験から,「人を集めるのが大変だからすでに人が集まっている場所がいい」,「9時–5時はやめましょう」,「どんな常駐者がいるかが重要」等と回答した。あわせてすでに民間起業支援施設もあったため,仕事帰りや休みの日に気軽に立ち寄ることができる等,既存施設にない特徴を打ち出せないならば,公設施設を新たに作る意味はない,と伝えた。これを受けて,福岡市は,開設時間を自由に設定できるよう,運営を委託する方針を固めた。

公募の結果,カルチュア・コンビニエンス・クラブ九州カンパニー(以下,CCC)が施設運営の受託者となり,TSUTAYA BOOK STOREの3階の一角に「スタートアップカフェ」(中央区今泉。以下スタカフェ)が開設されることになった25)。2011年に福岡に出店したばかりのCCCには起業支援の経験も,福岡での人的ネットワークもなかったので,スタカフェの運営メンバーは当初未定だった。しかし,CCCへの業務委託が決定した後,CCC担当者が驚くほど地場企業からアドバイスが寄せられ26),村上氏と藤見哲郎氏(1977年生まれ。当時,ドーガン27)社員)の紹介を受けた。その結果,「スタートアップ支援のコミュニティと希望者をコーディネートする機能」は,ドーガンがCCCから再委託を受けることになった。

最初に決めるべきは,誰がスタカフェに常駐して相談にのるか,であった。従来,市の創業窓口では,中小企業診断士や大手企業を定年退職した実務家が対応していた。しかし,既存企業を経営診断する中小企業診断士の専門性は,起業希望者が求めるものとは異なるし,最新のテクノロジーを活用したビジネスモデルには適用できない可能性があった。さらに,若い人々は,年齢差の大きい実務家には気軽に相談しづらいと感じることも懸念された。そこで,30代の藤見氏を中心として相談員を構成することになり,基本的に事業経験のある若い相談員が「コンシェルジュ」に就任した28)。常勤コンシェルジュの中には,大学在学中からドーガンでVC業務を経験し,同社に就職した渡辺麗斗氏(1990年生まれ)もいた。

CCC担当者,常勤コンシェルジュ,そして村上氏でスタカフェの運営コンセプトを慎重に検討した結果,「起業の裾野を広げる」とすることで意見が一致した。事業を継続できる企業は一握りしかなく,ましてやスタートアップを立ち上げて成功する人はさらに少なく,「偶発的に生まれる」。また,事業の成否は起業家本人の資質や能力だけの問題ではなく,事業環境等,タイミングの問題もある。さらに,日本では事業の失敗をよしとする文化はまだ形成されていないので,起業家が負う心理的リスクは限りなく高い。そこで,スタカフェは「起業を勧める相談窓口」ではなく,「起業をキャリアの選択肢として示す」場にしようという意見が採用された。「スモールスタート」を考えてもらったり,他のベンチャーに就職して自らのスキルを活かしたりする等,起業以外の提案もしようという意見も尊重された。そして,誰でも気軽に入れる雰囲気を作るため,スタカフェと書店スペースとの間仕切りは設けず,書店スペースからもスタカフェの様子を見ることができるようにした。

村上氏は,AIPカフェで実践した「ルールを作らないルール」を,スタカフェにも移植しようとした。このルールの意義について,村上氏は次のように述べている29)

「運用ルールは世の中にいくらでもある。みんなすぐにルールを決め,禁止したがる。ネット上にもある。でも,僕の仕事で重要なことの一つは,運用ルールに頼らない運用方法を考えること。そうすることで何が起こるかというと,AIPカフェで起こったように『誰でも,いつでも,気軽に集まって何かを始めることができる』。禁止というのは,簡単じゃないですか。『禁止』って書いて貼って,守らせて。一方でスタートアップに対して,イノベーションを起こせと言うんですね。禁止という言葉を使わずに回避できるような方法を考えたい。それこそが,スタートアップを支援している者のせめてもの務めだと。」

このように村上氏は,「ルールを作らないルール」こそが利用者の自発的なコミュニティ作りを促すと考えていた。彼は,スタカフェがコミュニティ形成を刺激する場になるべきと考えており,その認識は他の常駐コンシェルジュにも共有された。渡辺氏は,スタカフェの設計に関する当時の議論について以下のように振り返った30)

「スタートアップカフェは広く遍くいろいろな人に開かれている場である以上,自分たちで一個の巨大なコミュニティを作ることはおそらく無理だ。それよりも,福岡の中には,いろいろないいコミュニティが生まれている。それが有機的に結びついているところが,地域を一番面白くしているし,多様性を生んでいるという意識が強かった。多様であるからこそ,多くのスタートアップが生まれる。スタートアップにならないところも含めて。いろいろな可能性が生まれる場にしていくという発想からすると,やっぱり自分たちがコミュニティになったら良くないと。積極的に自分たち以外のコミュニティにネットワークを広げていこう。その上で,僕らは相談者の話をまず聞いて,あなたはこのコミュニティに相性がいいとか,あなたはこの人に話を聞いたほうがいいと整理して,たらいまわしにならないように,繋げていくハブというか,ルーターみたいな機能が大事だよねと。ネットワーク用語でいうと,ハブは,ただ通信を流すだけの機能を意味していているので,そうではなく解析してどのネットワークに繋げたらいいかをちゃんと自己で判断するルーターみたいな場所になろうよっていう話をしました。」

2014年10月,コンシェルジュ9人体制でスタカフェの起業支援が始まると,様々な人々が相談に訪れた。相談の多くは,個人事業の延長線上にある内容で,いわゆる「スタートアップ」としてイメージされるものからは相当に乖離があった。しかし,コンシェルジュは「その事業はダメだ」とは絶対に言わないようにした。相談者を門前払いにせず,「何でも相談に乗ります」という姿勢で対応すれば,福岡が何かにチャレンジできる街になり,それがゆくゆくは起業をしたいと考える人たちの裾野を広げることになると考えたからである。

スタカフェには,「福岡市雇用労働相談センター」(内閣府・厚生労働省事業)も併設されることになり,同センターの設置をきっかけに弁護士,社会保険労務士,弁理士といった専門家による相談窓口(週1日)もできた。いわゆる「士業」の相談窓口がカジュアルな,間仕切りのないオープンフロアに設置されたことは,全国的に見ても画期的であった。そして,空間の開放性は,専門家とコンシェルジュとの情報共有も容易にした。こうした「起業の敷居を下げる」努力が実を結び,2017年の相談件数は月172件と,開設前に比べ7倍になり,スタートアップカフェを利用した起業は100を超えた(うち31%は個人事業)。

2017年,天神地区(旧大名小学校)に戦略特区の拠点施設としてFGN(Fukuoka Growth Next)設立の計画が持ち上がった。村上氏は,FGNに関心があるものの起業家支援の経験は無かった福岡地所,さくらインターネット,アパマンショップホールディングスから公募資料作成の相談を受けた。彼は,「地方でコミュニティを作る上で地域に根ざしたコミュニケーションが効果的で,福岡では『飲みからコミュニケーションが始まる』」と考え,夜間に酒類を提供するバー(awabar fukuoka)の設置を提案した。公的施設での酒類提供は通常難しいと考えられたが,結果として,福岡地所,さくらインターネット,アパマン(2017年~2019年。2019年以降はGMOペパボ)の3社が共同事業者として認められ,コワーキング,VC各社と投資家との連携,メンタリングや交流会によるコミュニティ形成,人材育成およびマッチングなど,起業への幅広い支援を提供するFGNが誕生した(図2)。スタカフェは,空間的な一体性や開放性を確保したままでFGN内に移転され,アクセスがさらに良くなった。そして,awabar fukuokaは,デザイナーやエンジニアなど多様な人々が集い,学生でも起業アイデアを気軽に相談できる場として機能した。FGNは,福岡の起業関係者の知見が随所に活かされたものといってよいだろう。

図2

福岡県・福岡市の起業支援の取組(2003年–2018年)

出典:著者作成。

注:一重囲みは福岡県主体,二重囲みは福岡市主体,破線囲みは民間主体で設立。

V. 考察

本研究では,福岡市を例に,起業が不活発な地方社会において起業コミュニティの形成がどのように進展したのかを分析した。福岡市の起業が活発化した背景には,福岡県の産業振興やベンチャー支援のために活動した個人や組織の存在があった。麻生県政は,ベンチャー育成のための官民連携を進めるとともに,ITソフトウェア産業とクリエイティブ産業を融合させつつ振興した。そして,これらの取組で重要な役割を果たした人物は,やがて市でも活躍した。福岡県からの上場企業輩出に尽力した古賀氏は,その経験を福岡市のベンチャー支援で活かし,Ruby関連事業に関わった中島氏やAIPカフェを手掛けた村上氏は,スタカフェやFGNの構想や開業初期段階でそれまでのノウハウを移植した。福岡に特徴的なのは,こうした活動からコミュニティ形成を通じ「起業の敷居を下げる」方向性が生まれたことであり,その萌芽は,OSS運動に触発されたエンジニアや,そのコミュニティ運営者らによるイベントに集うクリエイターらによって生み出された。その活動を行政として正当化し,資源を提供したのが,スタートアップを成長戦略の中核に据えた高島市長だったのである。

従来の起業エコシステム研究と福岡の起業活発化に関する議論との関連で,以下の三点を本研究の発見事実として指摘したい。第一に,福岡の場合,産業振興や起業支援をめぐる県,市,民間の活動は,全体として計画・調整されたものではなかった。しかし,たとえ取組が成功裡に終わらなくとも,継続される中でそこで活動する人々の経験は移転され,共有された。例えば,福岡県は,ベンチャー支援と新産業インフラ(教育機関など)整備を進め,そこでは特定産業を育成するだけでなく,関連する産業同士を融合させていくための組織が整備された。福岡市はその人材やコミュニティを活かした本格的な起業支援を構想し,市中心部に総合的な起業支援の拠点を設けた。

第二に,業種,組織,職業に分散している資源を結集させ,効果的な協働を実現するには,それらの社会的境界を超える人物や組織が必要だった。福岡では,上場企業の輩出(古賀氏),新プログラム言語の商業化(中島氏),エンジニア・起業支援(村上氏)などの領域で,県や市など,複数の組織で活動する「越境者」が現れた(図3)。越境者は,最初から公的な役割を与えられたわけではなく,情熱や信念から自ら行動を起こすことが多かった。その小さな試みが,業界,組織,職業の枠を越え,経験の共有と協働を生み,一定の成果をあげるにつれ,より大きな組織体制で実践する機会を得ていった。

図3

「越境者」が関与した主な組織・プロジェクト・イベント

出典:著者作成。

第三に,起業支援の対象についてである。福岡市は,起業に関心を持つ人々を広く受け入れ,総合的に支援する体制を整えた。これは,特別な経営スキルや豊富な資源を持ち合わせていない者でも起業に挑戦できる街を作ろうとする試みであり,「起業の民主化」と表現することができる。こうしたアプローチは,高成長ベンチャーを選択的に支援すべきとする海外の起業エコシステム研究とは異なるものだが,福岡の経験は,起業そのものが不活発な社会では,まず起業を民主化することが効果的である可能性を示唆している。

VI. おわりに

近年の福岡市による起業支援の充実には目を見張るものがあるが,それが良好な成果をあげている背景には,高島市政誕生前からの広範な個人や組織による「協働」があった。この「協働」は事前に計画されたものではなかったが,高島市政下での「起業の民主化」の取組を効果的なものとした。2023年現在,FGNには187社が入居し,2017年の開設から2023年3月までの入居期間中に資金調達に成功したスタートアップは延べ85社,資金調達額は合計365億円となった。

2024年4月には,「これまで広げてきたスタートアップの裾野を次のステージに飛躍させる」ため,これまでの運営体制が一新されることとなった。これに伴い,福岡地所,さくらインターネット,GMOペパボ,フォースタートアップスの4社を共同事業者として,FGNとスタカフェの運営は一体化される。こうした展開は,福岡市が「起業の民主化」のみならず,高成長スタートアップの輩出にも本格的に取り組み始めることを表しているといえよう。

本研究は,福岡の起業エコシステム全体をとらえたものではない。例えば,近年,大きな成果を生みつつある,九州大学を中心とした大学発ベンチャーは取り上げていない。これらに関しては,今後の研究課題としたい。

謝辞

ご多忙の中,インタビュー調査に協力いただいた関係者に,この場を借りて御礼申し上げる。また,本論文は,第11回アントレプレナーシップ・コンファランス(日本ベンチャー学会・日本中小企業学会・ファミリービジネス学会・企業家研究フォーラム共催)に提出した論文を大幅に加筆・修正したものである。コメントを寄せて下さった方々に感謝申し上げる。ただし,ありうべき誤謬は著者の責任である。

1)  各国の起業活動の活発さをあらわす指標として「総合起業活動指数(Total Early-Stage Entrepreneurial Activity: TEA)」がある。日本は49カ国中43位である(GEM, 2023)。Takahashi(2013)によれば,日本は,起業家予備軍からの起業率を見ると,多くの先進国を上回り,米国並みの水準で,その比率は首都圏と地方とそれほど変わらない。

2)  国家戦略特別区域法(2013年制定)に基づいて,地域を限定して規制・制度を改革する政策で,当初,福岡市を含めて6地域が指定を受けた。

3)  福岡市は,内閣府「スタートアップ・エコシステム拠点形成戦略」の4拠点都市の一つに選定された。

4)  「起業の民主化」に関する主な議論では,デジタル技術の普及が起業を活発化させることを指摘している(Chen, 2018)。これに対し,本研究は,起業における心理的・社会的問題の解決に関心がある。

5)  古賀光雄氏は,1946年,久留米市生まれ。福岡大学卒業。1995年,等松・青木監査法人(現 有限責任監査法人監査法人トーマツ)代表社員(現パートナー)に就任,1997年,トーマツ ベンチャーサポート(現,デロイトトーマツベンチャーサポート)を創業,代表取締役。2022年8月30日インタビュー。

6)  1999年に社団法人化,2001年には,日刊工業新聞から,古賀氏は「大学発ベンチャー・ビジネスプランコンテスト」の主催を引き継ぎ,2004年に「九州ニュービジネス大賞」を開始した。

7)  熊本,鹿児島,大分,長崎でも30年近く開催され,地域の新規事業発表の場となっている。

8)  麻生渡氏は,1939年,北九州市生まれ。京都大学卒業後,1963年,通商産業省入庁。2005年~2011年,全国知事会会長。知事退任後,2012年~2016年,福岡空港ビルディング株式会社代表取締役。

9)  第4回目からは「事前審査」として,県庁内で報告内容をブラッシュアップする仕組みまで整えた(麻生氏インタビュー,2022年8月30日)。発足以来,約20年でのべ2,400社以上の企業が登壇,約2割が取引や投資等の成約につながっている。

10)  中島賢一氏インタビュー,2023年1月19日。中島氏の経歴については,注15を参照のこと。

11)  Q-Boardは,上場時価総額を3億円(マザーズは5億円)以上とした。FVMでは事業計画を発表した企業の中から,グリーンシート銘柄企業のシンジケート団を組むことを視野に入れていた。

12)  岸原氏インタビュー,2022年5月24日。

13)  「経済だけを考えるとうまくいかない。文化とか歴史とか,人間の心の問題がある。経済というのはなんのためにあるかというと,やっぱり文化を作るためであり,人間の豊かな心を作るためにある。それを並行してやっていかなければ駄目」と語っている(麻生氏インタビュー,2022年8月30日)。

14)  Rubyは,習得が容易で,開発効率が高く,Java等他の言語に比べ約2~10倍の速さで開発が可能といわれた。Twitter(現,X),Netflix,クックパッド,マネーフォワードといったアプリで使用された。

15)  中島賢一氏は,1971年熊本県生まれ,2004年に福岡県庁に民間採用で入庁,2013年4月福岡市に移籍。福岡アジア都市研究所フェロー,福岡eスポーツ協会会長他。

16)  中島氏インタビュー,2023年1月19日。

17)  福岡市が32億7,000万(出資比47.2%),福岡県と日本政策投資銀行が10億円,民間企業26社が26億5,800万円を出資した。

18)  2か月に1回開催され,審査の上,最優秀賞100万円を獲得できる制度だった。創業10年未満の中小企業に,販路開拓等改善案を審査し100万円を支給する「ステップアップ助成」という制度も作った。

19)  OSSとは,ソースコードが公開され,その複製・修正・再配布が自由なソフトを指す。2006年,Javaがオープンソース化を開始したことがOSSを利用したソフト開発を加速化させた。

20)  村上純志氏は,1977年福岡市生まれ。プログラマ経験後,NPO法人AIP理事,株式会社サイノウ代表取締役。

21)  村上氏インタビュー,2021年7月3日。

22)  設立費用9億円の半分は総務省の補助金を活用した。当初は,大手IT企業が教材を制作し,共同で技術者養成に取り組んだ。

23)  高島宗一郎氏は,1974年,大分県生まれ。獨協大学卒業後,1997年KBC九州朝日放送にアナウンサーとして入社,2023年現在,福岡市長4期目。

24)  CCC提供の内部資料による。以下,特に断らない限りスタカフェに関するデータはCCC内部資料による。

25)  福岡市の担当者の一人は,2013年に福岡県から福岡市へ転籍した中島氏であった。

26)  佐藤賢一郎氏(当時,CCC社員)インタビュー,2021年7月1日。

27)  ドーガン株式会社は,2004年,九州をはじめとする地域経済活性化に寄与しようと作られたVCである(当時の社名は,コア・コンピタンス九州)。2017年,ベンチャー企業への投資を専門とするドーガン・ベータ(代表取締役林龍平氏)をMBOにより設立。

28)  藤見氏インタビュー,2021年7月1日。

29)  村上氏インタビュー,2021年7月29日。

30)  渡辺氏インタビュー,2021年8月23日。

二宮 麻里(にのみや まり)

大阪市立大学大学院経営学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(商学)。福岡大学商学部専任講師,准教授を経て現職。主要著書に『酒類流通のダイナミズム』(有斐閣)。

大田 康博(おおた やすひろ)

大阪市立大学大学院経営学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(経営学)。徳山大学(2022年度より周南公立大学)経済学部教授を経て,現職。著書に『繊維産業の盛衰と産地中小企業:播州先染織物産地における競争・協調』(日本経済評論社)

三井 雄一(みつい ゆういち)

大阪市立大学大学院経営学研究科博士後期課程修了。博士(商学)。清泉女学院短期大学,九州産業大学を経て現職。

References
 
© 2024 The Author(s).

本稿はCC BY-NC-ND 4.0 の条件下で利用可能。
https://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/4.0/deed.ja
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