2026 年 46 巻 3 号 p. 329-331
「現代の日本の産業や社会は,年々閉塞感が高まっているように感じる」(iv)―本書『エフェクチュアル・シフト』は,このような認識を出発点としている。停滞する経済や低成長,将来への不透明感といった状況が指摘されるなかで,本書の基本的な視点は,閉塞感のただ中にあっても,組織や個人の実践を通じて社会を変革する契機が存在するのではないか,という点にある。
著者は,日本社会が抱える構造的課題の一つを生産性の向上と捉え,そのためにはイノベーションが不可欠であるとする。ただし本書の関心は,イノベーションの必要性を抽象的に指摘することではなく,それを生み出す具体的な行動様式を明らかにする点にある。「現在の日本の企業や産業や社会は,イノベーティブな行動が満ち溢れる状態にはほど遠い」(v)と述べる著者は,ではどのようにすれば私達が不確実性の時代においてイノベーティブな行動を実行できるのか,という問いを中心に据える。
その問いに対する理論的手がかりとして提示されるのが,サラス・サラスバシーによって提唱された「エフェクチュエーション理論」(Sarasvathy, 2001)である。エフェクチュエーションとは,予測によって未来をコントロールしようとするのではなく,手中の資源を起点に行動を開始し,偶発的な出来事や他者との協働を通じて機会を共創していく,企業家的な意思決定の論理である。その中核には,五つの原則が位置づけられており,著者は,イノベーションの可能性を発掘し展開するためのこうしたエフェクチュアルな行動様式への理解が社会に十分浸透していないことを問題視し,不確実性のもとで行動を正当化しうる実践原理として,エフェクチュエーションが有効であると論じる。
もっとも,本書が扱うイノベーションは,GoogleやChatGPTのような破壊的な技術革新に代表されるものではない。むしろ,既存技術を活用しながら市場との相互作用のなかで新たな価値を創出していく,マーケティング主導のイノベーションに焦点が置かれている。
著者は,日本企業による具体的なマーケティング実践の事例を取り上げ,それらをエフェクチュエーションの視座から解釈することで,可能となる条件やツールを提示する。本書の目的は,こうした知見を共有することによって新たな行動を触発し,社会におけるイノベーションの促進に寄与することにある。
本書は全7章で構成される。中心的な関心は,エフェクチュエーションの問題空間を形づくる多様な不確実性がマーケティングの実践にいかなる課題をもたらし,そうした状況下で,企業家個人や大規模組織内での企業家がいかに機会を捉えうるかという点にある。
第1章と第2章では,本書全体の目的と論点が概説され,第3章以降,日本企業の具体的なマーケティング実践事例を参照しながら議論が展開される。
第2章では,サラスバシー『エフェクチュエーション』(Sarasvathy, 2001)と石井淳蔵『マーケティングの神話』(Ishii, 1991)を参照し,現代マーケティング論の主流であるSTP(Segmentation, Targeting, Positioning)モデルの前提に批判的な視座を向けている。不確実性の高い市場環境では,明確なセグメントが事前に存在しない場合が多く,正当化の確証を欠くことで「無限後退」の問題が生じる。この状況を突破するには,市場を外部に存在する対象として把握する視点を超え,自らを実践者として市場形成に関与することが求められる。著者は,ここに組織におけるエフェクチュエーションの行動原理の意義を見出す。
第3章では,環境と個人・組織が相互に形成し合う再帰的な関係を前提に,企業家的機会を把握するためのマーケティング・リサーチの在り方を検討している。とりわけ,市場で行動を起こす前に客観的な見通しを得ようとする従来的な予測型リサーチだけでなく,市場での実際の行動や実験を通じて知見を収集する探索的リサーチの重要性が指摘される。
第4章では,マスキングテープ「mt」やアラジントースターといった事例を取り上げ,新結合がいかに進展するかを考察している。エフェクチュエーションの五つの原則が相互に関連することで,企業家は固定観念の枠から解放され,新結合に挑むことが容易になる。
第5章では,企業が市場で遭遇する三つの不確実性―未来の市場の状態,市場で自らの行為が生み出す効果,こうした状態や効果に反応しながら進めていく,自らの目的や必要となる能力―を整理し,各局面における行動の特徴を分析している。
第6章では,不確実性をイノベーションの源泉であると同時に失敗の契機ともとらえ,失敗のリフレーミングや学習という観点からその意義を再考する。
第7章では,エフェクチュアルな行動が経済的成功のみならず,個人・組織・社会の幸福創出にも有効であることが強調される。
以上の議論を通じて著者は,企業家研究におけるエフェクチュエーションの論理をマーケティング論へと応用し,最終的には不確実性が支配する現代社会に広く適用できる理論的基盤として提示している。
本書の最大の貢献は,従来のマーケティング教育において定式化されてきたSTPの枠組みを補完する理論的装置としてエフェクチュエーションを位置づけ,その実践的有効性を,事例を通じて具体的に示した点にある。従来「場当たり的」として軽視されがちであった行動様式を再評価し,不確実性の高い社会関係のもとで市場を基盤としたイノベーションがいかに可能となるかを明らかにした点は評価に値する。本書は,読者にエフェクチュアルな行動への転換を促し,実践の契機を与えるだろう。
また,Ishii(1991)の議論とエフェクチュエーションの理論とを接続させたことも貢献であろう。STPマーケティングのような市場の分析によって合理的に戦略を立てるモデルは,現実の新規事業開発やイノベーション活動のダイナミズムを必ずしも十分に説明できていないが,本書は,市場に対して能動的に働きかけるマーケティングの側面を,企業家個人や組織内のイントラプレナーのエフェクチュアルな行動と関連付けて論じることを可能にした。そのことで,クレイジーキルトの原則やレモネードの原則など,より行為を明瞭に意味付けることができ,結果として,いかにしてマーケティング主導のイノベーションを生み出す実践に取り掛かることが可能かという具体的な処方箋を提供することが可能となった。
もっとも,課題も残されている。その一つは,個人と組織の関係性に関する描写の不明瞭さである。エフェクチュエーション理論は本来,企業家個人の行動様式に関する理論である。しかし本書では,企業組織としての事例と個人の実践が並行的に提示され,両者の関係性が必ずしも十分に描き出されていない。とりわけ,ある組織において画期的な取り組みがなぜ可能であったのか,その背景や構成員間の関係性が省略されている場合がある。こうした点において,事例の組織がどの程度「エフェクチュアル・シフト」として進展していたのか,あるいはコーゼーショナルな組織のなかでエフェクチュアルな個人がロジックを架橋した結果なのか,その移行過程は十分に明らかにされていない。個人と組織を往還する視座を分析・提示すれば,本書はさらに実践的示唆に富む内容となっただろう。
もちろん本書においても具体的な事例が紹介されているケースもある。たとえば,mtの事例では,マスキングテープの文具化の契機となった三人の女性の活動と,カモ井加工紙との関係が取り上げられている。とりわけ本書は,一般的な記事などと比較して,きっかけとなった女性たちの活動を詳細に描いている点に特徴がある。
しかしながら,この事例をエフェクチュエーションという視点から捉えるのであれば,三人の女性の役割はさらに強調されてもよかったのではないだろうか。というのも,彼女たちはこの事例における初期のエフェクチュエーターとして理解できるからである。三人はマスキングテープの新しい使い方を紹介する小冊子を自主制作し,ファンを増やそうと試みていた。また,国内のマスキングテープメーカーに取材依頼を送り続けるなど,既存企業に働きかける行動もとっていた。返信が得られない場合には冊子を送付するなど,接触の方法を変えながら関係構築を試み,さらにはオリジナルのマスキングテープの制作を企業に提案していた。こうした一連の活動には,機会の創出,ネットワークの形成,パートナーの巻き込みといった企業家的要素が明確に見て取れる。
この点を踏まえるならば,むしろ企業家的な行動が顕著に見られるのは,カモ井加工紙という企業よりも,三人の女性たちの側であったとも言えるだろう。その意味で,本書が提示する事例から私達がさらに知りたいのは,三人がどのように出会い,協働関係を形成したのか,そしていかなる過程を経て最初の自主制作本『Masking Tape Guide Book』を制作し,どのように人々の関心を喚起したのかである。書評という性格上,ここで詳しく補足する紙幅はないが,本書の理解をより豊かなものとするためにも,三名の女性(ギャラリーカフェ「ロバロバカフェ」のオーナーであるいのまたせいこ氏と,その常連客であるコラージュ作家のオギハラナミ氏およびグラフィックデザイナーの辻本歩氏)の出会いや活動の経緯にも注目して欲しい。その点については,Horiguchi(2015)によるブログ記事を参考されたい。
こうした一連の活動は,エフェクチュエーションの視点から見れば極めて示唆的であり,本書においてさらに詳しく検討されていれば,理論的議論は一層説得力を増したであろう。
しかしながら,こうした限界が本書の意義を大きく損なうわけではない。むしろ本書は,単一企業における成功や失敗の事例に閉じることなく,社会全体に広がる閉塞感に対して挑戦的な提案を行っている。閉塞的な組織の内部で模索する個人や,行動の契機を見いだせずにいる人々にとって,本書は有益な道標となる。著者が序文で強調するように,事例の共有そのものが個人や組織の小さな変化を誘発し,やがては社会全体に「エフェクチュアル・シフト」をもたらす可能性を持つ。その意味で,本書の試みが成功するか否かは,私達読者がいかに本書と向き合い,自らの企業家的実践へと結びつけるかにかかっている。