2024 年 49 巻 p. 1-11
本稿の目的は,教育実践において学習者のアイデンティティを重視しつつ学びを創り出す,いわば「生徒の声」からペダゴジーを実践する取り組みとして,モイセス・エステバン=ギタートが考案した「アイデンティティの資金」アプローチに着目し,その理論的背景と実践事例を検討することで,意義と可能性を明らかにすることにある。本稿では2つの課題を設定し,次のことを明らかにした。
第1に,知識/アイデンティティの資金アプローチの理論的沿革を振り返ると,脱政治化の危機に自覚的な研究群が存在してきたことが明らかになった。これらにより,「欠陥思考」に対する問題意識を脱政治化するような知識/アイデンティティの資金の活用に対抗しようとしていたことが窺えた。
第2に,アイデンティティの資金を用いた幼児教育の実践事例の検討を通して,単に脱政治化を回避するだけでなく,教師の批判的介入がラディカル・ペダゴジーにしばしば見られるような「押しつけ」にならないよう,子どもたち固有の経験と創造を尊重する実践の可能性が見出された。
また,冒頭の目的で示した,教育実践において生徒の立場を重視する際に使われる「生徒の声」という概念について,そのメタファーから想起されるような生徒による積極的かつ直接の表現の発露のみならず,アイデンティティの資金に見られるような文化的人工物を媒介することによって「生徒の声」を聴くことの可能性が示唆された。