抄録
『羅生門』というテキスト空間の重層性は、旧記、登場人物「作者」の書いた先行するテキスト「羅生門」、そしてそれらを手にした「語り手」が、自らの語りのテキスト生成のありようを示すという構造であるとみて、示した。つぎに、その「語り手」の視線と下人の視線とを比較することで、これまで多くの読老が「語り手」の支配できない箇所に自らの物語を、しかも「語り手」とおなじ論理で、埋めていく構造を示した。そしてこの物語が近代的な自己同一性の物語として無批判に成立してきたのは、このテキスト空間の重層性と、そして本来的な無秩序性の存在によるものだということを指摘した。そして、このテキストの空間における下人の非決定的な在り方は、「語り手」と近代的な価値観によって隠蔽されてきた下人の姿であった。