本稿ではアナキズム詩におけるナショナリズムおよびネイションの表象について、詩誌『北緯五十度』の猪狩満直・更科源蔵を中心に考察する。猪狩満直『移住民』(一九二九年)は「百姓」を新たな理想的世界のネイションとして想像した。更科源蔵『種薯』(一九三〇年)、「コタンの学校」(一九三一年)はアイヌの声を代弁してナショナリズムを批判したが同時にそれを遂行した。詩誌『弾道』の秋山清・小野十三郎は『北緯五十度』を批判して激しい論争となる。秋山は戦後も批判をつづけたが、ここにはナショナリズムを構成的外部とすることでアナキズムの純粋性を担保する論理がうかがえる。アナキズムとナショナリズムの交錯/混交の様相を論じた。