抄録
樹上で生活するチンパンジーにとって、食べ物や他個体が何かに遮蔽されて部分的にしか見えない状況は頻繁に生じうる。したがって、部分的な視覚情報を統合することにより物体の全体的な形を認識することは不可欠な能力の1つだと考えられる。これまでの研究から、形態情報の空間的統合の過程にはヒトとその他の霊長類で違いが見られる可能性が報告されてきた。たとえば、全体的な構造と部分的な構造を同時に持つ階層的な図形(e.g.「H」という文字が多数の小さな「S」の配列から構成されている)の見本あわせをおこなうと、ヒトでは全体的な構造に基づく文字の弁別の方が速いのに対し(Navon, 1977)、マカクザルでは部分的な構造に基づく文字の弁別の方が速い(Hopkins and Washburn, 2002; ただしTanaka and Fujita, 2000)という報告がある。一方、チンパンジーでは全体処理が優位な個体と、部分処理が優位な個体の両方が見られている(Matsuno and Tomonaga, 2007)。そこで本研究では、形態情報の時空間的統合の過程を8名のヒトと4個体のチンパンジーで比較するため、スリットの隙間から動く線画を観察し(スリット視)、部分的な視覚情報から線画の全体像を認識する課題をおこなった。手続きは、継時見本あわせを用いた。まず、コンピュータモニタ上の細い縦長のスリットの後ろに、線画が左から右へ移動しながら提示される。続いて提示される3つの線画の中から先に提示されたものと同じ線画を選択すれば正解となる。スリットの隙間の幅及び、線画の提示速度を操作することによって、形態情報の時空間統合の能力を比較した。その結果、チンパンジーもヒトと同様、いずれのスリット幅・速度条件でもチャンスレベルよりも有意に高い正答率を示した。また、両種ともスリット幅の最も狭い条件、低速度条件よりも高速度条件で正答率が低下し、反応時間が増加する傾向が見られた。さらに、チンパンジーではヒトよりも著しく成績が低下した。したがって、形態情報の時空間的統合過程において、チンパンジーとヒトで共通点と相違点が認められることが示唆された。さらに、この傾向は、物体の線画の代わりに無意味図形を用いて同じ手続きで比較した場合にも見られたことから、用いた線画の種類によるものでないことが示唆された。