抄録
近年シカ科の雄の発情の音声(rut call)が,闘争力の指標や,雌の誘因になることがあきらかになってきた.ニホンジカ Cervus nipponの雄では発情期に比較的長距離まで届く2種類の音声を出すことが知られている. moanは 200m位まで届き頻繁に発声される. moanは,雄や雌に向かって発声されたり,他個体の moanや howlに反応して発声される.時には複数個体の鳴き合いになる.また,moanは長さ,音の大きさ,回数に変異が多い.これらのことから,闘争力の指標になっている可能性がある.一方,howlは 1km位まで届き1日に数回,1 -5音節の音声として発声される.音響構造の個体内の変異が少なく,個体間の変異が多いことが知られている.この音声は誰が発声しているかという個体情報を伝えている可能性を示している.今回は,howlの音節数に注目し,個体内の音節数の安定性を検討するとともに,経年変化や発情期中の変化,年齢や体重との関係を調べた.宮城県金華山島の個体識別されたニホンジカのうち,1989年から 2010年までで,1発情期に 10回以上の howlを記録できた 29個体の 1,294回の howlを対象とした.なわばり雄でも音節数が少ない個体がおり,音節数は社会的地位や体重を直接反映しないことがわかった.多くの個体では音節数は安定していたが,壮年期に音節数がわずかに多くなる個体が見られた.また,10年間で 279回の音声を記録できた個体では,なわばりを確立する発情期前半には音節数が多くなり(約 4.2音節)後半には若音節数が下がる(約 3.0音節)傾向を示した.これらのことから,howlの音節数は,基本的には個体情報を伝えている可能性を示唆したが,体力や興奮などで音節数が増加することがあり,闘争力も表現されている可能性も示唆された.