抄録
ヒトはカニクイザルと比較し、下方かつ広い喉頭を有することが知られている。私たちはこれまでヒトの軟口蓋および咽頭の筋に関する解剖学的解析を通じて、嚥下や発音における機能の考察を行ってきた。本研究では、ヒトとカニクイザルにおける軟口蓋および咽頭の筋の形態を比較することで喉頭の下降に伴う筋形態の変化を解析し、それに起因する機能的特性、特にヒト特有の発音との関連を考察することを目的とした。京都大学ヒト行動進化研究センターより提供されたカニクイザル5体と、東京科学大学の解剖実習体の頭部5体(平均年齢75.4歳)を用いた。軟口蓋および咽頭の筋(上咽頭収縮筋、口蓋咽頭筋、口蓋舌筋)の起始・走行・停止を、肉眼解剖および組織学的手法により解析し、比較を行った。カニクイザルでは、上咽頭収縮筋は咽頭縫線から起こり、硬口蓋に付着していた。口蓋咽頭筋は軟口蓋の上面のみから起始し、咽頭上部の内面に分布していた。口蓋舌筋は軟口蓋下面から起こり、舌の側方部に停止していた。一方、ヒトでは、上咽頭収縮筋は咽頭縫線から起こり、最上部が軟口蓋の最外側に入る他、主な筋束は頬筋と連続していた。口蓋咽頭筋は軟口蓋の上下面から起始し、咽頭内面全体にわたって放射状に広がっていた。口蓋舌筋については、カニクイザルと同様に軟口蓋下面から起こり、舌側方部に入っていた。ヒトとカニクイザルで特に大きく異なっていたのは、上咽頭収縮筋と口蓋咽頭筋の形態であった。特に口蓋咽頭筋は、カニクイザルにおいては比較的単純に軟口蓋から咽頭上部内面を直線的に走行する筋であるのに対し、ヒトでは咽頭内面全体に放射状に広がっていた。このような形態的特徴は、喉頭の下降と関連して、ヒトが他の霊長類よりも複雑な筋構造を有することは、咽頭腔の精細な調整や発話機能の多様性に寄与している可能性がある。