抄録
テングザル(Nasalis larvatus)は、東南アジアの熱帯雨林に生息するコロブス亜科で、成熟オスの大きく発達した外鼻で知られる。本種は、単雄複雌ユニットを基本単位とし、複数のユニットが集まってバンドを構成する重層社会を形成する。メスは出自ユニットから広範に分散する一方、オスは短距離分散にとどまるため、バンド内でのオス間の遺伝的近縁性が高い父系的社会が示唆されている。外鼻サイズは、体サイズや性的成熟度、優位性を示す視覚的シグナルとして機能し、メスによる配偶者選択に寄与するとされる。さらに、成熟オスは、口を閉じて外鼻孔からロングコールを発することから、その大きな外鼻は、その内腔の共鳴により、鳴き声の低周波数成分を強調して、体サイズを誇張する音響シグナルを形成している可能性がある。本研究では、本種の若年と成体のオス、各1個体の冷凍標本をCT撮像して、鼻腔から外鼻内腔の三次元モデルを作成し、数値シミュレーションにより、外鼻の発達による音響効果を示した。若年から成体にかけての外鼻のサイズ成長により、低周波数成分が強調された。しかし、成体間の外鼻サイズの変異は、第三フォルマントの変化として表れ、低周波の強調効果は限定的であった。これは、成体オスの大きな外鼻が、若年に対する身体的・性的優位を示す音響シグナルを強調するという従来の見解を支持する。一方で、成体オス個体間の外鼻サイズの変異は、体サイズの優劣ではなく、むしろ個体識別のためのシグナルを生成している可能性を示した。父系的基盤を有する重層的社会構造のもとでは、個体識別能力が単雄複雌ユニットを超えた集団認知において重要な役割を担っていると考えられる。すなわち、テングザルの大きく発達した外鼻は、体サイズという中立的なシグナルに加え、個体識別のシグナルを強調する進化の結果であった可能性がある。