マイスター・エックハルトはしばしば魂の内なる或る一つの力について語っている。この力は知性であり、神を露わな仕方で捉える力であるとされる。本稿は、異端的として断罪されることになるこの主張の思想的背景を明らかにすることをその目的とする。エックハルトは知性認識を神の実体と同一視し、「知性認識は非被造的である」と理解する。そのうえで、知性認識をその存在根拠とする神と、そうした知性認識を存在としてではなく働きとして所有するだけの知性的被造物とを厳然と区別する。その一方で彼は、知性が普遍的概念を認識する能力である限りにおいて、あらゆる存在的規定性からの自由、「存在欠如性」を知性に認める。そのような理解の背景には、知性の対象が事物の始原、すなわち神の知性認識に他ならないという彼自身の独自な考えがある。それゆえ、我々の知性があらゆる認識に開かれているということは、知性が神をその裸の実体において捉えているということを示唆するものなのである。