宗教研究
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90 巻, 3 号
選択された号の論文の17件中1~17を表示しています
論文
  • 宗教学校所轄問題から宗教行政所管論への展開
    江島 尚俊
    2016 年 90 巻 3 号 p. 1-26
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    現代日本において宗務課は、なぜ文化庁の、ひいては文部科学省の組織管轄下に位置づけられているのか。その端緒を明らかにすべく、本稿では文部科学省の前身である文部省が、いつ、どのような状況の中で宗教行政所管のための理論構築を行っていったのかを明らかにしている。最初に焦点をあてたのは明治一〇年代である。まずは、この時期に生じた文部省・内務省間の宗教学校所轄問題が、太政大臣の政治判断によって一応の決着をみたことを論じた。次は、社会・外交状況の変化でその所轄問題が再燃する明治二〇年代に着眼している。そこでは、文部省が内務省とは別に所轄問題の解決を模索した結果、宗教学校のみならず宗教行政をも所管しようとする理論を構築していたことを指摘した。そして最後に、新しく構築された宗教行政所管論の特徴について論じている。この所管論においては、従来の内務省のように社寺行政の延長で宗教行政を捉えるのではなく、美術行政と学校・教育行政の枠組でそれを捉え直し、宗教行政の文部省所管が主張されていたことを明らかにした。

  • 倉田百三『出家とその弟子』への継承と相違
    大澤 絢子
    2016 年 90 巻 3 号 p. 27-50
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    本稿は、『出家とその弟子』の素材とされる『歎異抄』との関連に焦点を当て、特に浩々洞の暁烏敏を中心とした『歎異抄』読解を扱った。暁烏や多田鼎における『歎異抄』の読みとは、自己の罪悪の自覚と「絶対他力」の強調であり、その態度が彼らの描く親鸞像にも色濃く現れ、自分を愚かだと吐露する親鸞像が展開されていく。そしてそのような親鸞は、『出家とその弟子』の親鸞とも重なる点も多い。

     だが『出家とその弟子』の親鸞は、悪人の往生を説く『歎異抄』とも、あるいは暁烏の『歎異抄』読解とも大きく異なり、善を志向し、念仏(「祈り」)の成就としての往生を理想とする。キリスト教的な愛にも、絶対的な他力にもすがることのできなかった倉田が生み出したのは、きわめて求道的な親鸞像であった。

  • 『菩薩地』「真実義品」における無著の空性理解を通して
    横井 滋子
    2016 年 90 巻 3 号 p. 51-73
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    空の思想を確立した龍樹は、本質(essentia)は否定したが、実存(existentia)については明確に説明していないことが指摘されている。本稿は、この点に関して、正しい空性理解を提示する意図のもとに無著が著した『菩薩地』「真実義品」を通して、空としての「私」の存在がなぜ現実に現れているのかを考察した。その際、空の思想において究極なる真実である真如の側面と、「私」を出現させる言語表現の基体となる二つの側面を併せもつヴァスツ(vastu)という術語に焦点を当て、ヴァスツと認識の関係を検討することを通して現実に立ち現れてくる「私」の根拠を考察した。結論として、「私」とヴァスツは不即不離の関係にあり、「私」は、真如から名称によって呼び出されることによって、他から切り離され固有に存在すると認識されるものとして、一時的に現象している事態であることが見出された。つまり、「真実義品」の地平においては、現象としての「私」に永遠不滅のヴァスツが息づいているのである。

  • 西村 雄太
    2016 年 90 巻 3 号 p. 75-99
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    マイスター・エックハルトはしばしば魂の内なる或る一つの力について語っている。この力は知性であり、神を露わな仕方で捉える力であるとされる。本稿は、異端的として断罪されることになるこの主張の思想的背景を明らかにすることをその目的とする。エックハルトは知性認識を神の実体と同一視し、「知性認識は非被造的である」と理解する。そのうえで、知性認識をその存在根拠とする神と、そうした知性認識を存在としてではなく働きとして所有するだけの知性的被造物とを厳然と区別する。その一方で彼は、知性が普遍的概念を認識する能力である限りにおいて、あらゆる存在的規定性からの自由、「存在欠如性」を知性に認める。そのような理解の背景には、知性の対象が事物の始原、すなわち神の知性認識に他ならないという彼自身の独自な考えがある。それゆえ、我々の知性があらゆる認識に開かれているということは、知性が神をその裸の実体において捉えているということを示唆するものなのである。

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