本稿は、『出家とその弟子』の素材とされる『歎異抄』との関連に焦点を当て、特に浩々洞の暁烏敏を中心とした『歎異抄』読解を扱った。暁烏や多田鼎における『歎異抄』の読みとは、自己の罪悪の自覚と「絶対他力」の強調であり、その態度が彼らの描く親鸞像にも色濃く現れ、自分を愚かだと吐露する親鸞像が展開されていく。そしてそのような親鸞は、『出家とその弟子』の親鸞とも重なる点も多い。
だが『出家とその弟子』の親鸞は、悪人の往生を説く『歎異抄』とも、あるいは暁烏の『歎異抄』読解とも大きく異なり、善を志向し、念仏(「祈り」)の成就としての往生を理想とする。キリスト教的な愛にも、絶対的な他力にもすがることのできなかった倉田が生み出したのは、きわめて求道的な親鸞像であった。
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