2019 年 93 巻 1 号 p. 51-74
本論の主題は、清沢満之(一八六三―一九〇三)の『臘扇記』において「意念」がどのような内的構造を持っているのかを解明することである。清沢における「意念」は自由な意志のはたらきであり、本来如意なるものとして、不如意なるもの(財産、名誉、身体、生死など)との対立関係のなかで理解される。しかし、自己が新たな不如意なる現実に直面するごとに、本来如意なるものである「意念」の範囲が狭まり、「意念」の内的限界が認識される。そのような状況にあるとき、清沢は絶対無限の妙用に自己自身を托し、真の自己に目覚める。そこから、自己は再び不如意なるものとの対立関係のなかで、自らの新たな如意なる「意念」を見出す。このようなかたちで清沢の「意念」の理解は動的に深まっていく。