何かに触れることは日常的な行為であるが、それが宗教的な文脈の中で行われると特別な意味を持つことがある。チベット仏教徒にとって接触という行為は、悪果の因となり得る行為であり、また好ましい結果を生み出す行為ともなり得る。彼らは行者の持物や賢者の舎利に触れること、或いは加持された事物に触れることで、様々な願望を成就することができると信じており、また観想実践を通じて意識の中に顕れた対象との接触を通じて、宗教的価値を実現することができると考えている。しかし一方で、チベット仏教の教義に於いては、接触行為および接触体験の虚妄性が強調されることもある。本稿はチベットの宗教文献に広くあたり、接触体験の教理上の位置付けや、宗教実践の中で行われる多様な接触行為について紹介しつつ、チベット仏教における接触の意義とその特殊性について考察を行うものである。