宗教研究
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96 巻, 2 号
特集:宗教と接触
選択された号の論文の21件中1~21を表示しています
論文〔特集:宗教と接触〕
  • 編集委員会
    2022 年 96 巻 2 号 p. 1-2
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー
  • 触常者の行き方
    飯嶋 秀治, 広瀬 浩二郎
    2022 年 96 巻 2 号 p. 3-28
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    出版資本主義から近代国民国家を立ち上げた想像の共同体において「視覚障害」は、墨字読者の周辺に位置づけられた存在となった。それ以前から実在してきた琵琶法師等盲人僧たちの研究やその周辺に存在してきたイタコたちの研究は、そうした近代社会に表象された姿を相対化する研究となってきた。本稿ではこうした「目に見えない世界」の研究者であり、かつ、当事者でもある広瀬浩二郎の研究と実践を分析することで、これまでの宗教研究の理論や議論に対し「参与の感覚」「点字的脱構築」「参与への誘い」といった諸側面からの再考を迫るものとなる。また広瀬自身による応答はこれらの諸側面がどのように通底するのかという理解を促進するものとなろう。

  • ツァラアト/レプラ、聖性と穢れ
    上村 静
    2022 年 96 巻 2 号 p. 29-53
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    福音書のイエスはしばしば病人と接触しており、その中には当時のユダヤ社会において「穢れ」とされたツァラアト/レプラの人も含まれていた。本稿では、彼らとの接触を切り口に、イエスが「穢れ」と「聖性」についてどのような態度をとったのかを考察する。

    ヘブライ語聖書において、「聖性」は神の属性であり、それゆえユダヤ人は「聖なる民族」として「穢れ」を避け、「浄い」状態で生きることが求められた。ツァラアトの人は「穢れたもの」の象徴とされ、その病は神罰と解されていた。イエスは「穢れ」の問題を無視してツァラアト/レプラの人と接触した。イエスにとって神は「いのちを生かすはたらき」なのであり、律法規定が「いのちを殺すこと」になるならば、「穢れ」も「聖性」も無視すべき観念なのである。

  • スピリチュアルケアにおける倫理的ジレンマ
    大村 哲夫
    2022 年 96 巻 2 号 p. 55-78
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    身体と心をつなぎ癒し効果も期待できる「接触」は、宗教やスピリチュアルケアにおいて重要な役割を担ってきた。しかし日本においてスピリチュアルケアを担う臨床宗教師とスピリチュアルケア師では、医療的・心理的・倫理的リスクから接触を制限している。それは信仰を前提とした与えられる宗教的ケアから、ラポールを重視しケア対象者を支えるケアへと質的に変化をもたらした。またスピリチュアルケアは、標準的な技法を持たずケア提供者の人格に依拠しているため個性的かつ自由なケアが可能となる。この特長を生かしケア対象者とケア提供者の安全を保障するため「接触」制限を含む「枠」を設定している。しかしながら宗教的ケアからの伝統があり効果的でもある「接触」を封印することに抵抗を覚えるケア提供者もある。安易に接触に頼らず、リスクとケアの間でどう折合いをつけていけばよいだろうか。これはケア提供者とケア対象者だけの問題ではなく、日本社会がいかなるスピリチュアルケアを求め、許容するのかについてのコンセンサスに関わる問題でもある。

  • 『ミシュナ』トホロート巻を中心に
    勝又 悦子
    2022 年 96 巻 2 号 p. 79-102
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    本稿の目的は、ユダヤ教の「接触」を制約する「穢れ」の概念を現在のユダヤ教の基盤となっている『ミシュナ』(紀元後二〇〇頃成立)のトホロートの巻を中心に行う。これまでの研究史の問題点を指摘したうえで、モノの「穢れ」に注目する。その結果、モノの「穢れ」についての規定は、一、ユダヤ教生活の全て―衣食住―を網羅していること、二、ハラハー(法律議論)では、「穢れ」と道徳的「罪」を連想させることはないこと、三、モノの穢れにあたっては、物理的な意味だけではなく用途、目的といった意味での輪郭が明瞭であることの徴でもあることが指摘される。こうした点は、ラビたちが、表面、輪郭について非常に敏感であったこと、「接触」はクリアな表面、輪郭を持つモノの間でなされることという意識があったと考えられる。

  • 米国におけるスーフィー系サードプレイスの形成と変容
    高橋 圭
    2022 年 96 巻 2 号 p. 103-126
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    本稿では、近年移民第二世代や改宗者など米国に育った若者世代のムスリムを中心に支持を広げている、「伝統イスラーム」と呼ばれるスーフィズムの新たな潮流に注目し、その活動拠点となっているスーフィー・コミュニティにおけるムスリムの交流という観点から、宗教における接触/非接触の問題を論じた。これらのコミュニティは、モスクとは別に、多様なムスリムが集まり交流できる場を掲げており、その性格を捉えてしばしばサードプレイスと呼ばれている。本稿では、その一つであるタアリーフ・コレクティヴを事例に取り上げ、その活動や空間の分析から、この団体が自らを、モスクを補完する場として位置づけることで、主流派のコミュニティとの共存を図りながら活動領域を広げてきたことを明らかにした。そのうえで、コロナ禍を契機に、この団体がよりスーフィー色の強いコミュニティへと変化しつつあること、またそれがムスリムの交流の在り方にも今後影響を与えうる可能性を論じた。

  • 津曲 真一
    2022 年 96 巻 2 号 p. 127-148
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    何かに触れることは日常的な行為であるが、それが宗教的な文脈の中で行われると特別な意味を持つことがある。チベット仏教徒にとって接触という行為は、悪果の因となり得る行為であり、また好ましい結果を生み出す行為ともなり得る。彼らは行者の持物や賢者の舎利に触れること、或いは加持された事物に触れることで、様々な願望を成就することができると信じており、また観想実践を通じて意識の中に顕れた対象との接触を通じて、宗教的価値を実現することができると考えている。しかし一方で、チベット仏教の教義に於いては、接触行為および接触体験の虚妄性が強調されることもある。本稿はチベットの宗教文献に広くあたり、接触体験の教理上の位置付けや、宗教実践の中で行われる多様な接触行為について紹介しつつ、チベット仏教における接触の意義とその特殊性について考察を行うものである。

  • 視覚化・可触化による宗教学教材の作成とそのプラトンおよび新プラトン主義的な基盤
    土井 裕人
    2022 年 96 巻 2 号 p. 149-168
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    「接触」や「触る」という場面を宗教や宗教学において考えると、実践について思い浮かびやすい一方で、研究や理論についてはイメージされにくいであろう。筆者はこれまで、プロクロスを中心に西洋古代の宗教思想について視覚化と可触化による研究を試行するとともに、その手法を宗教学教材の作成にも応用してきた。本稿ではその概略を紹介し、研究手法としては限界もあるものの、教材としては訴求力を持ち理解を促進しうることを述べる。それとともに、この試みの出発点となったプラトンや新プラトン主義の観点から「触れる」ことの宗教思想における意義を検討すると、単に身体的な触覚にとどまらず「触れる」ことが宗教的対象への直接的な接近や把握としても語られることがわかる。このように「触れる」宗教研究は、いわゆるコロナ禍において、宗教的対象との直接的な関わりのあり方とその意義を新たな時代にふさわしい仕方で問い直していく試みでもある。

  • 叡尊教団による非人垢すり
    松尾 剛次
    2022 年 96 巻 2 号 p. 169-193
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    本稿では、光明皇后垢すり伝説の変容とその背後にある叡尊・忍性らを代表とする叡尊教団による身体的接触をともなうライ者救済活動に光を当てた。また、叡尊教団によるライ者救済活動が文殊信仰に基づいていることを論じた。

    まず、鎌倉期から南北朝期に、光明皇后垢すり伝説において、垢すりの場が阿閦寺(の前身)から法華寺へと変化し、また、皇后の慈愛を試す仏が阿閦仏から文殊菩薩へと変化した伝承があることを指摘した。そうした変化はまさに、その時期にライ者救済活動を担い、法華寺をも末寺化し、光明皇后ライ者垢すり伝説を広めた主体であった叡尊教団による、と考えられる。

    また、古代・中世日本において浄・不浄観は重要な社会的な意味を有していた。ライ者は穢れた存在とされていた。それゆえ、ライ者との身体的な接触は穢れに触れる不浄な行為と考えられていたが、忍性らは、自分たちは厳格な戒律護持を行っており、穢れることはないと考えていた。

  • 死者臨在感覚の研究史
    諸岡 了介
    2022 年 96 巻 2 号 p. 195-217
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2022/12/30
    ジャーナル フリー

    本稿の狙いは、英語圏における「死者臨在感覚(sense of presence of the dead)」の研究史の整理を行い、それを手がかりに現代社会における死者の問題の扱われ方を考察することである。死者臨在感覚とは、何らかのしかたで、多くの場合には不意に、死者の存在を感じ取る体験のことである。心霊現象研究・超心理学、宗教意識調査、死別悲嘆研究といった諸潮流を確かめることで、死別悲嘆研究における「絆の継続」モデルの台頭が、死者臨在感覚への関心の高まりとともに進んだ過程であることが示される。

    こうした死者問題やそれと関連した宗教への注目は、たしかに現世主義的世界観としての世俗主義を相対化しようとする動きである。しかし同時に、死者との関係を生者の心理に与える効果において評価し、それを取りもつ機能において各宗教伝統を横並びに扱うという点で、リベラル世俗主義という現代的条件に与するものである。

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