「多神教」という語は、明治期に登場する。多くの神を信じる宗教という字義通りの意味で使用されることもあるが、宗教進化論を背景に一神教と対比され、より進化の程度が低く、遅れた宗教というイメージも持たれた。するととくに神道家を中心に神道を多神教と分類することに異議も唱えられるようになった。
本稿では、戦間期である一九二七年に発表された泉鏡花の戯曲「多神教」が、こうした多神教コンプレックスを前提とした作品であることを指摘し、その上で戦間期が、多神教のイメージの転換期であることを論じた。その転換とは、多神教を進化論の枠組みから解放し、多神教である神道の発展性を強調するものであった。この言説は、ファシズム期の植民地支配において、多神教国日本が一神教よりも支配において優位であると論じる主張と共鳴することになった。