産業衛生学雑誌
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マレーシアにおける職業性潜水作業者の労働安全衛生における現状と課題
森松 嘉孝 錦織 秀治岡原 義典小島 泰史木之下 聡森 美穂子星子 美智子石竹 達也
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2020 年 62 巻 4 号 p. 165-167

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はじめに

クアラルンプールを首都とするマレーシアは,マレー半島に位置する国家で,面積は日本の約0.9倍(約33万平方km),人口3,119万人(2015年)のうち約67%がマレー系,約25%が中国系,約7%がインド系の多民族国家である1.2010年に「新経済モデル」,「民族変革プログラム」及び「経済変革プログラム」を発表し,2015年におけるマレーシアの一人当たりのGDPは約9,500ドルと,日本のGDPの約29.2%に相当する1.また,2015年における「第11次マレーシア計画」では,2020年までの先進国入りを目指し,国際競争力強化のための規制緩和が進み,国内では投資と国内消費に支えられ成長を持続している.この様な経済発展に伴い,日本の建設業や自動車関連製造業の現地進出が著しいが,2015年,ナジブ首相訪日の際,地域や国際社会の幅広い課題について,今後一層協力を強化する「戦略的パートナーシップについての日本マレーシア共同声明」を発出したことから,今後,日系企業によるマレーシア進出がさらに増える可能性がある.

海外へ進出した企業が,現地の労働者の安全と健康を確保することは,国際的に企業の社会的責任とされている2ことから,企業(事業所)は各国・地域の法令を遵守し,労働災害や健康障害の防止を日本と同レベルで行うことで,その責務を果たさなくてはならない3.しかし,アジアの新興国や発展途上国では,法令は存在するもその適用や監督が不十分であったり,労働安全衛生を担う人材やサービス機関の質の差異が懸念されている4,5,6.日系企業の海外拠点に一定水準の労働安全衛生レベルを確保するには本社からの支援確保が重要7であるが,日本の事業所が海外で行っている労働安全衛生に関する情報は少ない.とりわけ職業潜水では,作業現場がオフショア(公海)か,インショア(国内)かで従うべき規則が異なるといった問題があり,オフショアではInternational Marine Contractors Association: IMCA(国際海洋請負業者協会)の基準8に,インショアではその国の規則に従うことが原則と考えられ,潜水作業者のメディカルチェックも同様だが,作業依頼元による独自のオーダーもあると聞く.そこで今回,我々はマレーシアにおける職業性潜水作業者における最新の労働安全衛生について,2019年8~9月の間に2回,日本産業衛生学会専攻医1名が実際に現地を訪問し,現地事業所責任者および日本人職業性潜水士による案内・情報提供を受けインタビュー調査を行ったため,ここに報告する.

マレーシアの労働安全衛生省庁

20世紀初頭,マレーシアでは州ごとに,ボイラー使用を管理する法律が制定され,1913年にMachinery Enactment(機械法規)が制定された9.これは,1953年にMachinery Ordinance(機械政令)へ改定され,さらに,1967年にFactories and Machinery Act(工場・機械法)が制定された.その後,1980年代以降の工業およびサービス業を基盤とする経済移行に対応し,1994年に軍隊と商船での労働者を除くあらゆる労働者に対して適用されるOccupational Safety and Health Act(労働安全衛生法)が制定された.これは,職場における安全衛生の確保に向け,事業者や労働者,さらには産業衛生,人間工学,労働安全に関わる労働安全衛生専門家が自主的かつ積極的関与を求める現場志向の法律であった.現在では,Ministry of Human Resources(マレーシア政府人材資源省)に様々な部署があり,このうちDepartment of Safety and Health(労働安全衛生部)がマレーシアの労働衛生に関する国情を公開している10.これによると,第一次産業(農業・林業)従事者の割合は12.5%と,日本のそれの3.6%と比べると多い.高気圧環境下における作業者には,職業性作業潜水者,圧気土木作業者,インストラクターダイバー,素潜り漁師などが挙げられるが,これらの作業者に対し,本邦では労働安全衛生規則とは別に高気圧作業安全衛生規則(高圧則)が定められている.一方で,マレーシアにおける労働安全衛生制度に関しては,Department of Skills Developmentという部署が管轄しており,2020年には最新の労働安全衛生情報の収集にマレーシア政府から英国へ担当者が派遣される予定である.なお,かつて一つの国であった隣国シンガポールには潜水規則があり,減圧表はアメリカ海軍またはカナダのDefence and Civil Institute of Environmental Medicine: DCIEM(国防民間環境医学研究所)を使用すると規定されている11が,マレーシアには日本の高圧則に相当する規則はない.

マレーシアの潜水作業者における安全衛生規則

マレーシアにおける労働衛生教育は,National Institute of Occupational Safety and Health: NIOSH(マレーシア国立労働衛生研究所)が安全衛生管理者養成,建設安全,化学物質リスクアセスメント等の研修コースを行っている.このNIOSHの機能向上の目的に,2000年より作業環境管理,健康管理,人間工学的対策を中心に,日本とマレーシア政府間の技術協力プロジェクトが行われてきた.その中で,湖に潜水して水没したジャングルの樹をチェーンソーで伐採する水中伐採作業者において,潜水病死亡事例が存在するとの報告12があるも,今回のヒアリングにて,現在はそのような作業はマレーシアでは行われていないとのことであった.

マレーシア領内における労働安全衛生規則には,IMCAの基準が用いられており,費用が2,000万リンギット(1リンギット30円とした場合6億円)を超える事業の場合,「Health and Safety Officer」と呼ばれる安全管理者の設置が義務づけられている13.Health and Safety Officerは通称Safetyと呼ばれ,現場事務所に常駐し,安全管理を行っている.マレーシアには潜水作業者を管理するために特別な安全管理者を配置する法規はないことから,工事全般のHealth and Safety Officerが潜水作業の安全についても管理している.一方で,作業に潜水を伴う場合,Diving ContractorとしてDiving Supervisorを配置して工事を行なっている事業所もある.Diving Supervisorは,作業プロトコール内容が遵守されているか,作業内容に関する資格を有しているかなどの作業者の配置適正,当日の海況は問題ないか等の管理を行っている.彼らは,作業の中断を命令できる者の中で最も経験が豊富であることから,Diving Supervisorは生命の危険に関する判断を行っても良いこととなっているが,彼らに最終権限があるわけではない.例えば,周りの皆が危険と判断した際にDiving Supervisorだけが経験上危険ではないと判断しても,作業の続行を強行する権限はなく,作業全体の権限は作業の責任者に帰属する.

マレーシア海中専門職協会

マレーシアの潜水士は,その歴史的背景からHealth and Safety Executive: HSE(英国安全衛生庁),もしくはAustralian Diver Accreditation Scheme: ADAS(オーストラリアダイバー認証機構)の資格を有している.これらは2000年に設立されたIMCAが認定している資格で,IMCAはガイドラインを制定している.本邦における筆記のみの潜水士資格試験とは異なり,マレーシアの潜水士資格試験にはPart 1~3で構成された実地試験が課される.Part 1はスクーバ潜水,Part 2 は 30 mの作業潜水,Part 3は 50 mの作業潜水で,資格取得には合計75,000リンギット(約2,250,000円)の費用を要する.さらに飽和潜水作業に従事する場合はPart4 の実技試験に合格しなければならず,これには別途75,000リンギットが必要である.現在,遠隔操作型無人潜水機(ROV; Remotely operated vehicle)作業者を含む約400人のマレーシア職業性潜水作業者は,そのほとんどがMalaysia Subsea Professionals Association: MSPA14(マレーシア海中専門職協会)に所属している.MSPAは2013年4月に設立された比較的新しい組織であるが,職業性潜水に関するマレーシア政府のコンサルタント組織でもある.特徴はpresidentが2年毎に変わることで,これは,不正を防止するという目的もあるが,常に会員へチャンスを与え,会員のモチベーションを上げ,その結果,組織をより強くするといった目的がある.

まとめ

海外からの企業参入が激しいマレーシアの職業性潜水作業現場では,英国の基準を遵守して作業を行っているが,中には雇用主の本国,もしくは事業所の規則を用いて作業を行う場合もある.隣国シンガポールやタイ,インドネシアからの作業者も含まれるマレーシアの潜水作業現場では,その時の事業主が指示する潜水作業規則を用いており,我が国のような高圧則は存在しない.このため,日本の職業性作業ダイバーから見れば,最新の潜水作業概念や情報に乏しく,現場や安全管理者により潜水作業の安全度にバラツキが生ずることが懸念される.現地で労働者を雇用する企業が社会的責任を果たすには,労働安全衛生管理を現地法人・事業所に委ねるだけでなく,企業としての基本方針や基準を示して高いレベルの活動を技術的に支援し,その活動を可視化するシステム(グローバル労働安全衛生マネジメントシステム)3が必要であるが,法令やシステムを遵守するだけでは労働者の健康確保に繋がらない可能性が高い7.また,途上国における一般労働者の労働安全衛生に関する関心や健康意識は十分に高いとは言えない.そこで,マレーシアにおける大多数の職業性潜水作業者が登録しているMSPAが,彼らへ定期的に最新情報を提供し,常に一定水準の技術・知識を維持できる教育システムを確立することで,マレーシアの労働安全が高まるのではないかと思われた.

利益相反

利益相反自己申告:申告すべきものなし

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