史学雑誌
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研究ノート
大隈重信の政治的危機と財政をめぐる競合
――明治六年から八年を中心に――
柏原 宏紀
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2015 年 124 巻 6 号 p. 1128-1152

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抄録

明治6(1873)年5月に大蔵省事務総裁、10月に大蔵卿(長官)を兼務した大隈重信参議が、大蔵省を統轄して積極財政を進め、いわゆる「大隈財政」を展開したと多くの研究が指摘してきた。また、この大隈が、大久保利通の強力なリーダーシップの下で、伊藤博文と共に「大久保政権」の一翼を担い、大久保・伊藤率いる内務省・工部省の政策展開を支えたともしばしば描かれてきた。
本稿は、かかる「大隈財政」像について、政治史的側面に焦点をあてて再検討を試みるものであり、特に、政府内での大隈の政治的位置も含め、財政権をめぐる大隈・大蔵省の政治・制度的問題に注目して考察した。
結果として、大隈の政治的行動に由来する不安定な立場や失脚危機と共に、太政官制潤飾(改革)を発端とする大蔵省の制度的不安定が継続して存在し、それらに起因して財政をめぐる競合が展開したことを解明した。すなわち、制度的に分担関係が曖昧となった正院(左院)財務課と大蔵省との財政権をめぐる管轄争いを描き出し、それが正院財務局構想へと発展すると共に、政策や予算にも影を落としたことを指摘した。
かかる競合関係の中で、大蔵省はその予算方針を貫徹しきれず、彼らが削減を目指した工部省予算も、過去最大の7年度予算と同割合か漸減レベルで確保を許した。その理由は、政治問題化を避けるための前年度維持方針や伊藤工部卿の反論などと考えられ、「大隈財政」のためというよりは大隈・大蔵省の不安定さ故と見た方がよく、従来の「大隈財政」像には一定の留保が必要であると評価した。また、最終的に大隈を救う大久保も、大隈の危機に乗じて管轄を取り上げるなど、両者の関係が必ずしも強固なものではなかった点も指摘し、「大久保政権」論も再考を要するとした。
最後に、上記の不安定要素は、8年10月の島津久光らの辞任と翌月の大蔵省事務章程改定を経て解消され、「大隈財政」が展開される前提が整ったとした。

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