史学雑誌
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124 巻, 6 号
選択された号の論文の21件中1~21を表示しています
論文
  • 新見 まどか
    原稿種別: 論文
    2015 年 124 巻 6 号 p. 1077-1113
    発行日: 2015/06/20
    公開日: 2017/06/27
    ジャーナル フリー
    従来「唐宋変革」期として注目を集めてきた唐代中国史であるが、近年はその変動を中華世界のみならず、東部ユーラシア全体の中で考察しようとする潮流が生じている。本稿ではこの関連性を実証的に考察すべく、九世紀半ばに昭義節度使において生じた、劉稹の乱という藩鎮反乱に注目した。この反乱は従来、藩鎮反乱の「例外」とする見方が強かったが、藩帥側近集団の分析により、安史の乱以来の藩鎮反乱の系譜に位置づけることができる。また、朝廷が劉稹の乱討伐を敢行できたのは、当時唐朝北辺に出現していた遊牧帝国ウイグルの、遺民集団の敗走を背景とした。さらに朝廷は、劉稹軍と気脈を通じていた河朔三鎮との離間策のため、河朔三鎮と世襲に関する取引を実施し、その脅威を除いた。ところが乱終息後の大規模な軍縮によって、却って河南を中心に余剰兵力が放出され、盗賊・密売、あるいは反乱などの動揺が生じたのである。
    以上の経緯を踏まえれば、劉稹の乱や河朔三鎮対策、さらに河南の情勢不安といった事象が、唐の国内問題に留まらず、内陸世界の動向と段階に関連していたことが判明する。すなわち安史の乱以来、唐朝は北辺防衛のみならず対河朔三鎮のため、内地にまで膨大な軍事力を抱え込んできた。しかし武宗期、北辺でウイグルが崩壊したので、朝廷は北辺防衛の軍事力を内地の藩鎮反乱討伐に割いた。さらにこの藩鎮反乱の中で唐朝廷は、河朔三鎮の安静化をも実現した。こうして、唐朝の軍事的脅威は内外ともほぼ同時に消滅した。そこで朝廷は、一見不用となった内地藩鎮の軍事力縮小に乗り出した。その結果、行き場を失った多くの兵員は、国内の不穏分子へと変貌してしまった。劉稹の乱は、草原の遊牧帝国崩壊の余波が、唐朝北辺から太行山脈を越えて河北へと次第に波及し、河南の混乱の遠因となった、九世紀半ばの情勢変化を象徴する出来事だったといえる。
研究ノート
  • 大西 克典
    原稿種別: 研究ノート
    2015 年 124 巻 6 号 p. 1114-1128
    発行日: 2015/06/20
    公開日: 2017/06/27
    ジャーナル フリー
    いわゆる外交革命以後、ブルボン-ハプスブルクの対立が解消した18世紀後半のイタリア半島では、ようやく訪れた政治的安定を背景にして、イタリア内外の思想家の影響を受けつつ、各国で先駆的な行財政の改革が行われたことが知られている。ピエトロ・レオポルド治世下(在位1765-1790年)のトスカーナ大公国で行われた改革もこれらの啓蒙改革の一つとされる。特にその治世前半に行われた一連の行財政改革は従来フランス重農主義を範として、富の源泉たる土地に税負担を集中させる一方で、土地所有者のみに地方行政への参加を認め、一定の地方自治を保証することで、土地所有者を中心にした社会を目指したのだと言われてきた。
    しかしながら、近年の研究はレオポルド期前半に行われた改革が、土地に税負担を集中させ、土地所有者を中心にした社会を目指したと言えるほどの大きな税制上の変化を伴っていたのかを疑問視する成果を提出している。
    本稿ではレオポルド期前半の土地税改革の内容を追った後、官房局文書に見出される改革前後の各機関の収支報告を用いて国家財政に占める土地税の割合が変化したか否かを検討した。
    その結果、確かにこの時期に土地税の支払いを地方行政の参加要件としたことで、土地所有者による地方自治の原則が確立されている。だが、同時期に行われた土地税改革は、既存の土地税の制度整理に終始しており、こうした地方行政制度の改革に十分に対応したものではなく、国家財政は実際には関税と消費税に依存し続けていたことが明らかになった。レオポルド期の改革は、地方行政を土地所有者に委ねる一方で、財政的には都市部の商工業に依存するという構造的な歪みを生み出したのである。
  • ――明治六年から八年を中心に――
    柏原 宏紀
    原稿種別: 研究ノート
    2015 年 124 巻 6 号 p. 1128-1152
    発行日: 2015/06/20
    公開日: 2017/06/27
    ジャーナル フリー
    明治6(1873)年5月に大蔵省事務総裁、10月に大蔵卿(長官)を兼務した大隈重信参議が、大蔵省を統轄して積極財政を進め、いわゆる「大隈財政」を展開したと多くの研究が指摘してきた。また、この大隈が、大久保利通の強力なリーダーシップの下で、伊藤博文と共に「大久保政権」の一翼を担い、大久保・伊藤率いる内務省・工部省の政策展開を支えたともしばしば描かれてきた。
    本稿は、かかる「大隈財政」像について、政治史的側面に焦点をあてて再検討を試みるものであり、特に、政府内での大隈の政治的位置も含め、財政権をめぐる大隈・大蔵省の政治・制度的問題に注目して考察した。
    結果として、大隈の政治的行動に由来する不安定な立場や失脚危機と共に、太政官制潤飾(改革)を発端とする大蔵省の制度的不安定が継続して存在し、それらに起因して財政をめぐる競合が展開したことを解明した。すなわち、制度的に分担関係が曖昧となった正院(左院)財務課と大蔵省との財政権をめぐる管轄争いを描き出し、それが正院財務局構想へと発展すると共に、政策や予算にも影を落としたことを指摘した。
    かかる競合関係の中で、大蔵省はその予算方針を貫徹しきれず、彼らが削減を目指した工部省予算も、過去最大の7年度予算と同割合か漸減レベルで確保を許した。その理由は、政治問題化を避けるための前年度維持方針や伊藤工部卿の反論などと考えられ、「大隈財政」のためというよりは大隈・大蔵省の不安定さ故と見た方がよく、従来の「大隈財政」像には一定の留保が必要であると評価した。また、最終的に大隈を救う大久保も、大隈の危機に乗じて管轄を取り上げるなど、両者の関係が必ずしも強固なものではなかった点も指摘し、「大久保政権」論も再考を要するとした。
    最後に、上記の不安定要素は、8年10月の島津久光らの辞任と翌月の大蔵省事務章程改定を経て解消され、「大隈財政」が展開される前提が整ったとした。
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