抄録
本稿では、日本の中世社会の特徴をよく示す法諺として知られる、「獄前死人、無レ訴者、無二検断一」(獄前の死人、訴え無くば、検断無し)という言葉の意味を再検討し、この法諺を、中世社会の検断の実態の中で、整合的に理解し、位置づけることを試みた。
この法諺はこれまで、日本中世の検断(刑事訴訟)における弾劾主義・当事者主義の原則の存在を、またさらに広く、中世社会が自力救済を原則としていたことを象徴的に示すものと理解されてきた。そして、「獄の前に死体があったとしても、訴えがなければ、検断は行われない」、さらには「行ってもらえない」という意味で理解されてきた。
しかし、一方で、訴えが無いにもかかわらず検断が行われ、それが不当であると訴えられたり、鎌倉幕府や朝廷などによって禁止されたりするという実例も多く存在する。
この法諺の「訴えが無ければ、検断は行われない/行ってもらえない」という通説的理解と、訴え無しに検断が行われ、それが非難されるという実例の存在は、どのように整合的に理解することができるのか、この点の解明が本稿の目的である。
まず第一章では、この法諺に関する先行研究にさかのぼり、「訴えが無ければ、検断は行われない/行ってもらえない」という通説的理解の成立過程とその問題点を確認した。その結果、通説的理解の形成過程とともに、一方で、当時の検断のあり方との間に矛盾も指摘されていたことを明らかにした。また、先行研究における史料解釈にも問題点が存在するものがあることが明らかになった。
次に第二章では、中世の検断の実態を確認し、訴えと検断との関係について、史料に即して検討し以下の事を明らかにした。まず、中世にあっては、様々な権力主体が、権利・利権として検断を行っており、それゆえに不当・過酷な検断が横行していた。これに対し、鎌倉時代中期以降、検断の執行を訴えがあった場合に制限しようとする動きが生じてくる。この動きは、撫民法として幕府や荘園領主にも採用され、地域社会レベルでの検断に規制が加えられていった。一方、悪党問題の発生にともない、特に幕府では、一定の形式と手続きの下、訴え無き検断の正当化が進められた。地域社会レベルでは訴え無き検断の制限が行われる一方、幕府や荘園領主レベルでは訴え無き検断の正当化が進められていったのである。
そして第三章では、「獄前死人、無レ訴者、無二検断一」という言葉が記された訴訟の経緯を確認し、この言葉が発せられた意図と、その意味内容を明らかにした。この言葉は、東寺の執行職をめぐる至徳二年の訴訟の中で発せられた。それは、訴訟の争点となった殺害について、検断の結果、その犯人は明らかになったという主張を否定するために発せられた言葉であった。よって、この言葉は「訴えが無ければ、検断は行われてはならない」と、訴え無き検断を否定・拒否する意味と解釈すべきである。
中世にあっては、様々な権力主体が、権利・利権として検断を行っていたため、不当・過酷な検断が横行していた。これに対し、鎌倉時代中期以降、検断を訴えがあった場合のみに制限しようとする動きが生じ、地域社会レベルでは訴え無き検断の制限が行われる一方、幕府や荘園領主レベルでは訴え無き検断の正当化が進められていった。訴えと検断をめぐるこのような状況と、「獄前死人、無レ訴者、無二検断一」という言葉が発せられた経緯を踏まえるならば、この法諺は「訴えが無ければ、検断は行われてはならない」と、訴え無き検断を否定・拒否する意味で解釈するべきである。そして、このように解釈することによって、この法諺は中世社会の検断の実態の中で、整合的に理解し、位置づけることができる。