史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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127 巻, 8 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2018 年 127 巻 8 号 p. Cover1-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/08/20
    ジャーナル フリー
  • 2018 年 127 巻 8 号 p. Cover2-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/08/20
    ジャーナル フリー
  • 多賀 良寛
    2018 年 127 巻 8 号 p. 1-34
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/08/20
    ジャーナル フリー
    一八〇二年にベトナム初の南北統一王朝として成立した阮朝は、中部のフエから全土を統治する独自の体制を構築した。こうした阮朝の統治体制を経済面で支えたのは、フエを頂点とする全国的な財政物流機構であり、その中核には漕運制度による物資の海上輸送が位置していた。
    嘉隆期から明命初期にかけ、漕運用船舶ないし漕運行為は長舵という名称で呼ばれた。この時期には長舵隊に編成された中部地域の沿海民が、私有商船とともに物資輸送にあたった。その後長舵による物資輸送が拡大すると、私有商船は納税と引き換えに商業活動への専念を許された。
    一八二六年の制度改革によって長舵船は漕船に改称され、各地域の幇に編成されるが、ほどなくして漕船数の著しい減少が明らかとなる。こうした漕船の減少は、国有船である官船輸送の拡大によって埋め合わされた。一八三七年に海運船の建造が始まるに及び、漕運全体に占める官船の比重は飛躍的に高まっていく。いっぽう嘉隆末期に漕運義務を免除された私有商船は、代役・免役船として活発な商業活動を展開した。
    明命中期より顕著となる漕船数減少の主要原因は、海運事故に遭遇した漕船船戸に対する重い賠償責任にあった。事故によって賠償責任を負った船戸が経済的に再起するのは困難であり、失われた漕船は補充されることなく欠額が増えていった。その後嗣徳年間にいたると、海運船の建造によって支えられた官船輸送の拡大も限界に達する。その結果嗣徳二年には、それまで交易に専従してきた代役・免役船を幇に組織して漕運に組み込み、既存船舶の不足を補うことが決定されたのである。
  • 西田 友広
    2018 年 127 巻 8 号 p. 35-51
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/08/20
    ジャーナル フリー
    本稿では、日本の中世社会の特徴をよく示す法諺として知られる、「獄前死人、無レ訴者、無二検断一」(獄前の死人、訴え無くば、検断無し)という言葉の意味を再検討し、この法諺を、中世社会の検断の実態の中で、整合的に理解し、位置づけることを試みた。
    この法諺はこれまで、日本中世の検断(刑事訴訟)における弾劾主義・当事者主義の原則の存在を、またさらに広く、中世社会が自力救済を原則としていたことを象徴的に示すものと理解されてきた。そして、「獄の前に死体があったとしても、訴えがなければ、検断は行われない」、さらには「行ってもらえない」という意味で理解されてきた。
    しかし、一方で、訴えが無いにもかかわらず検断が行われ、それが不当であると訴えられたり、鎌倉幕府や朝廷などによって禁止されたりするという実例も多く存在する。
    この法諺の「訴えが無ければ、検断は行われない/行ってもらえない」という通説的理解と、訴え無しに検断が行われ、それが非難されるという実例の存在は、どのように整合的に理解することができるのか、この点の解明が本稿の目的である。
    まず第一章では、この法諺に関する先行研究にさかのぼり、「訴えが無ければ、検断は行われない/行ってもらえない」という通説的理解の成立過程とその問題点を確認した。その結果、通説的理解の形成過程とともに、一方で、当時の検断のあり方との間に矛盾も指摘されていたことを明らかにした。また、先行研究における史料解釈にも問題点が存在するものがあることが明らかになった。
    次に第二章では、中世の検断の実態を確認し、訴えと検断との関係について、史料に即して検討し以下の事を明らかにした。まず、中世にあっては、様々な権力主体が、権利・利権として検断を行っており、それゆえに不当・過酷な検断が横行していた。これに対し、鎌倉時代中期以降、検断の執行を訴えがあった場合に制限しようとする動きが生じてくる。この動きは、撫民法として幕府や荘園領主にも採用され、地域社会レベルでの検断に規制が加えられていった。一方、悪党問題の発生にともない、特に幕府では、一定の形式と手続きの下、訴え無き検断の正当化が進められた。地域社会レベルでは訴え無き検断の制限が行われる一方、幕府や荘園領主レベルでは訴え無き検断の正当化が進められていったのである。
    そして第三章では、「獄前死人、無レ訴者、無二検断一」という言葉が記された訴訟の経緯を確認し、この言葉が発せられた意図と、その意味内容を明らかにした。この言葉は、東寺の執行職をめぐる至徳二年の訴訟の中で発せられた。それは、訴訟の争点となった殺害について、検断の結果、その犯人は明らかになったという主張を否定するために発せられた言葉であった。よって、この言葉は「訴えが無ければ、検断は行われてはならない」と、訴え無き検断を否定・拒否する意味と解釈すべきである。
    中世にあっては、様々な権力主体が、権利・利権として検断を行っていたため、不当・過酷な検断が横行していた。これに対し、鎌倉時代中期以降、検断を訴えがあった場合のみに制限しようとする動きが生じ、地域社会レベルでは訴え無き検断の制限が行われる一方、幕府や荘園領主レベルでは訴え無き検断の正当化が進められていった。訴えと検断をめぐるこのような状況と、「獄前死人、無レ訴者、無二検断一」という言葉が発せられた経緯を踏まえるならば、この法諺は「訴えが無ければ、検断は行われてはならない」と、訴え無き検断を否定・拒否する意味で解釈するべきである。そして、このように解釈することによって、この法諺は中世社会の検断の実態の中で、整合的に理解し、位置づけることができる。
  • 高柳 峻秀
    2018 年 127 巻 8 号 p. 52-75
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/08/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、「排日教育」問題に対する日本と満洲における日本人教育者の対応を検討することで、特に満洲事変以降日本政府や⾔論界が中華民国国民政府を批判する主要な論点の⼀つとして同問題を取り上げるようになった過程を明らかにすることを目的とする。従来は「排日教育」問題をめぐる外交交渉が注目され、教育界の活動に対する検討は不⼗分であった。
    一九二八年に三民主義教育に基づく教科書が南京国民政府下の中国において編纂されるようになると、満鉄附属地公学堂日本人教員がその記述を問題視し、満鉄と協力して教科書中の排日記事を抜粋し訳文を付した数種類の「排日教科書」資料集を翌年から満洲事変前後にかけて作成・出版した。本稿ではこうした資料集が外務省や国際連盟協会によって国内外の宣伝用として利用されるだけでなく、日本国内でも販売部数と図書館での閲覧数を伸ばし多数の読者を獲得していたこと、複数の出版物で言及・引用されたこと、中国の政府とメディアも注⽬していたことを明らかにした。
    また、同時期には従来中国問題に殆ど関与することのなかった日本内地の教育界、中でも全国連合小学校教員会が「排日教育」問題への対応と日華教育提携への協力を日本の各界に建議しただけでなく、国際連盟、南京国民政府、中国人教育者にもそれを打診していたことを明らかにした。満洲事変後に同会が作成した中国政府宛の建議書は日中の文化的な共通性を強調しつつ双方の教科書の改善を打診したが、同時に用意された日本政府宛と国際連盟宛の建議書では「排日教育」を満洲事変の原因と断じ、その対応を要求した。外務省もこうした教育界の活動を国際宣伝に利⽤した。
    以上本稿では、三⺠主義教育の実施後から満洲事変前後に至る教育者の諸活動が、「排日教育」問題を⽇本国内に周知させる大きな要因であったことを明らかにした。
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