抄録
本稿は、身体という対象を社会学的に理解するための、認識論と方法論について検討するものである。このテーマについて、ローイック・ヴァカンの身体社会学の根幹をなしている「肉体の社会学」(carnal sociology)を検討する。彼の肉体の社会学は、師であるピエール・ブルデューの反省的社会学を実践するものであり、認識論と方法論とを反省的に問い直す過程において提出されたものである。肉体の社会学の特徴は、「身体の社会学」と同時に「身体からの社会学」となっているということである。「身体からの社会学」が意味していることは、社会学者の身体を、対象を理解する手段とするということである。しかし、ヴァカンは、フィールド・ワークにおける身体性と反省性について十分に検討していない。この点にかんして、本稿は、リチャード・シュスターマンのsomaesthetics(1)の議論を検討する。シュスターマンは、反省-前反省的領域という図式には含みこまれない、感性的な反省の存在を指摘し、この感性的な反省の学術的可能性を論じている。こうした議論から、筆者は、社会学者には、方法論として「感性社会学的反省」が必要であることを主張する。