抄録
我々の日常生活におけるネオリベラル化という位相は、管理社会論的な問題構成によって理解、分析、そして批判されるという傾向が見られる。この問題構成のなかでは、ネオリベラリズムは、支配的な統治機構による政策ないしはマーケティングを通じた「ネオリベラルな主体」の形成という新しい管理のテクノロジーとして概念化されている。しかし、このような論理は、「観察と予期にもとづく行為の先取り」というネオリベラリズムの本質的な点を取り逃がして、特殊なイデオロギーの内面化という次元に問題を還元してしまっているように思われる。そこで本稿では、新自由主義経済学の内在的論理に立ち返ることによって、ネオリベラリズムが「市場という認識枠組みによって世界を分節化するひとつの方法」として再定式化されうることを示していく。その再定式化を通じて、ネオリベラルな主体の形成が「我々が統治される」という契機のなかにではなく「我々自身が統治する」という契機のなかにあることが明らかになる。日常生活者が市場という認識枠組みによって世界を分節化するという局面においてこそ、その主体化が理解されうるのである。本稿では、このような観点から、ネオリベラルな主体の形成を「統治枠組みへの市場の再参入」として記述することによって、その問題構成が観察と主体化の関係をめぐる文脈において再構成されうるということを明らかにしていく。