現代社会学理論研究
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6 巻
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  • 社会学理論の挑戦
    赤堀 三郎
    2012 年 6 巻 p. 1-2
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
  • 赤堀 三郎
    2012 年 6 巻 p. 3-12
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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    本論文で行うことは、社会の危機と社会学理論との関係についての問題提起である。2011 年の日本では、震災・原発事故という特筆すべき出来事があった。この事態に、「日本の」社会学理論はどう反応するべきか。この問いに答えるにあたって、本論文では、ニクラス・ルーマンの社会学的システム理論における自己記述概念を援用する。自己記述とは、社会に関する記述はすべて社会による構築物だという考えを表すための言葉である。したがって危機もまた、社会の自己記述の一形態である。これを導きの糸として、「日本の」「社会学理論」を反省してみると、次のことが言える。まず、社会学理論は、社会の中で社会の自己記述を反省する部門として捉えうる。社会学は、社会が危機に瀕しているという認識によって生まれ、また、推進されてきた。危機に際して何も語り得ない社会学理論は、自分自体も危機に瀕することになる。「危機の中の社会学理論」という本論文の題名は、このような二重の意味を含んだものである。次に、社会学理論の欠如は社会の危機へと再帰的に跳ね返っていく。社会学理論ができること、またなすべきことは、政策提言や政治的意見表明などではなく、社会の自己記述を反省し、社会学理論それ自体を展開させることだけである。加えて、「日本の」社会学理論は、これまでのように国内市場のために輸入のみに徹するのではなく、震災や原発事故のような日本で起こった出来事をグローバルな社会学理論にも反映させることへと努力を傾ける必要がある。
  • 社会システム理論による複合災害の記述
    小松 丈晃
    2012 年 6 巻 p. 13-25
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿では、3.11 に生起した「超広域複合災害」を前にして、社会学理論はこれについてどのような記述と貢献ができるのかを、社会システム理論の立場から、考察してみたい。まず第1章において、1986 年にリスク社会論が提起されて以後の、リスクディスコースの変化を簡単にスケッチし、これが、今後の議論状況においても反復されうる可能性について述べる。次に、社会システム理論の立場から東日本大震災の一つの局面をマクロに記述するさいの手がかりになる概念として、「システミック・リスク」について検討する。この概念は、元々は金融の分野で使用されていたものだが、東日本大震災が社会にもたらした事態を把握するときに有効であると思われる。しかし、本稿ではさらに、社会システム理論に由来するリスク変換の概念を媒介にして、システミック・リスクをもう少し複雑なプロセスとして記述する。各システムごとのリスクの「変換」や「読み替え」あるいは「構築」とそれに基づくリスク処理が、他の諸システムにとっての別のリスクを帰結しうるのである。こうした記述の試みは、理論的にもまた実践的にも重要な含みを有していると思われる。以上をふまえて、「危機」が語られる現況だからこそむしろ、セカンド・オーダーの観察に徹することが社会学理論に求められるのだという点を、最後に確認しておきたい。
  • 不法性のユートピアをめぐって
    泉 啓
    2012 年 6 巻 p. 26-36
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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    「危機」は「(変革の)チャンス」である、という言説が存在する。この論理はしばしばネオリベラリズムとの近さが唱えられてきた。もっともこの論理のイデオロギー性ばかり語るのは生産的ではない。未確定状態としての「危機」にはR・ソルニットが語るような、人々の未知の関係性を生み出す肯定面がある。
    本稿はJ・ハーバーマスの近代社会論を、このような「危機=チャンス」論の批判的・反省的企てとして読解する。かつて彼の議論はCh・ムフから、人々の合意を重視する非政治的な議論であると批判された。しかし彼の合意概念は同時に非合意や非知の契機を極めて重視したものであり、また「未完のプロジェクト」の提唱も近代社会の未知なるものへの開かれに注目したものである。立憲主義を核とする近代社会は、不法行為を自己変革のための駆動因として自己内に秘める。ハーバーマスにとって「危機」とは状況と現行法との齟齬が最も顕著になる瞬間のこと、それゆえ現行法により不法者と定義された人々が現行法にとっての未知なるものを唱えうるチャンスの到来のことである。
    ソルニットの説く災害ユートピアとは、このように理解された近代社会の一局面を語ったものといえる。災害ユートピアとはマイノリティ的不法者の不法性が最も相対化され、彼らとマジョリティとの間に合意可能性が切り開かれるような場所といえよう。
  • 畑山 要介
    2012 年 6 巻 p. 37-49
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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    我々の日常生活におけるネオリベラル化という位相は、管理社会論的な問題構成によって理解、分析、そして批判されるという傾向が見られる。この問題構成のなかでは、ネオリベラリズムは、支配的な統治機構による政策ないしはマーケティングを通じた「ネオリベラルな主体」の形成という新しい管理のテクノロジーとして概念化されている。しかし、このような論理は、「観察と予期にもとづく行為の先取り」というネオリベラリズムの本質的な点を取り逃がして、特殊なイデオロギーの内面化という次元に問題を還元してしまっているように思われる。そこで本稿では、新自由主義経済学の内在的論理に立ち返ることによって、ネオリベラリズムが「市場という認識枠組みによって世界を分節化するひとつの方法」として再定式化されうることを示していく。その再定式化を通じて、ネオリベラルな主体の形成が「我々が統治される」という契機のなかにではなく「我々自身が統治する」という契機のなかにあることが明らかになる。日常生活者が市場という認識枠組みによって世界を分節化するという局面においてこそ、その主体化が理解されうるのである。本稿では、このような観点から、ネオリベラルな主体の形成を「統治枠組みへの市場の再参入」として記述することによって、その問題構成が観察と主体化の関係をめぐる文脈において再構成されうるということを明らかにしていく。
  • 森山 達矢
    2012 年 6 巻 p. 50-62
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿は、身体という対象を社会学的に理解するための、認識論と方法論について検討するものである。このテーマについて、ローイック・ヴァカンの身体社会学の根幹をなしている「肉体の社会学」(carnal sociology)を検討する。彼の肉体の社会学は、師であるピエール・ブルデューの反省的社会学を実践するものであり、認識論と方法論とを反省的に問い直す過程において提出されたものである。肉体の社会学の特徴は、「身体の社会学」と同時に「身体からの社会学」となっているということである。「身体からの社会学」が意味していることは、社会学者の身体を、対象を理解する手段とするということである。しかし、ヴァカンは、フィールド・ワークにおける身体性と反省性について十分に検討していない。この点にかんして、本稿は、リチャード・シュスターマンのsomaesthetics(1)の議論を検討する。シュスターマンは、反省-前反省的領域という図式には含みこまれない、感性的な反省の存在を指摘し、この感性的な反省の学術的可能性を論じている。こうした議論から、筆者は、社会学者には、方法論として「感性社会学的反省」が必要であることを主張する。
  • デュルケムの拒絶、ダグラスの挫折、アトキンソンの達成を中心に
    藤原 信行
    2012 年 6 巻 p. 63-75
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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    人びとにとって自殺動機の付与/帰属は、他者の突然の死が自殺であることに〈合理的〉な説明を与え、かつ誰がその死にたいしていかなる責任がある/ないかを明らかにするうえで、不可欠な活動である。しかし社会学は、動機付与/帰属にかんする厖大な研究の蓄積があるにもかかわらず、当該活動の研究に背を向けてきた。デュルケムが『自殺論』において、人びとが付与/帰属する自殺動機の資料的価値を全面的に否定したためである。デュルケム自殺論を全面的に否定し、自殺者本人の「自殺の社会的意味」を解明する質的解釈的研究を提唱したダグラスも、人びとによる自殺動機付与/帰属活動を研究上の射程におさめられなかった。彼が自殺者自身にとっての動機のみをアプリオリに特権化したばかりか、自殺動機を個人の内奥にある特権化された不可視の〈感情〉〈こころ〉のなかにあるとしていたためである。アトキンソンの〈プロト成員カテゴリー分析〉と呼びうる研究プログラムは、〈Why からHowへ〉という研究上の焦点の変更もあり、自殺動機付与/帰属活動の社会学的研究を飛躍的に進歩させた。これからの自殺動機付与/帰属活動の社会学的研究は、「動機の語彙」にかんする厖大な研究成果と成員カテゴリー分析の成果、とくに「述部」概念を参照し、アトキンソンの研究プログラムを発展させるべきであろう。
  • 後藤 孝太
    2012 年 6 巻 p. 76-88
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿では、夏目漱石の晩年の思想である「道義上の個人主義」を再考する。夏目は小説家だけでなく、同時代の文明批評に関わった知識人でもあった。だが、こうした知識人としての夏目の思想は中心的に扱われず、さまざまな解釈がなされてきた。その最たるものが個人主義思想である。そこで夏目の講演録や評論の言説を分析し、彼の社会認識を踏まえ、「道義上の個人主義」の全体像を提示することを試みた。夏目は個人主義を近代市民社会の産物として捉えていた。だが他方で分業をめぐる「生存競争」において、個人主義は「利己主義」や「神経衰弱」という原子論的な個人主義という形で疎外されてしまう。これらを克服する試みが「道義上の個人主義」という思想であることを明らかにした。さらにエミール・デュルケームの「道徳的個人主義」との比較を通じて、それがまた社会成員のあいだで共有されるべき個人の尊厳という理念であり、新たな道徳的秩序の基礎であることを考察した。こうした点から、夏目漱石を近代日本の先駆的な個人主義思想家として位置づけた。
  • 「保護」と「平等」をめぐる陥穽点を軸として
    村上 潔
    2012 年 6 巻 p. 89-101
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿では、1978 年頃から1985 年頃まで続いた、労働基準法の改定と男女雇用平等法の立法をめぐる女性運動内部のスタンスの差異・対立状況を確認することで、「保護」・「(男女)平等」をいった論点によっていかなる認識の違いが露呈し、いかなる陥穽が生じるのかを確認することを第一の目的とする。保護と平等を両方を求める運動は、一見女性運動としては理にかなった方針であるが、そこにどのような“仕組み”があることを意識化していたのか。また、反対に、保護と平等を拒否する運動とは、いかなる論理をもち、何を目的とすることで運動の意義をなしえるのか。そのような論点に取り組む。鍵となるのは女性労働者間の階層差に関する認識と、立法における政府・企業の論理への批判性の強弱である。結局、この労基法改定と平等法の立法をめぐる流れは、1985 年の「男女雇用機会均等法」とそれに連なる「均等法体制」として帰結する。その評価をすると同時に、オルタナティブな「戦略」も確認する。そのうえで、この相克の意味を、現在の女性労働をめぐる運動がどのように引き継いでいくべきであるのかを整理し、その萌芽形態を確認する。
  • 大澤 真幸
    2012 年 6 巻 p. 102-108
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
  • 藤村 正之
    2012 年 6 巻 p. 109-113
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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  • 出口 剛司
    2012 年 6 巻 p. 114-118
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
  • その認識論的枠組みと社会学的介入の先へ
    田中 研之輔
    2012 年 6 巻 p. 119-122
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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  • 文化社会学のパースペクティブ
    佐藤 成基
    2012 年 6 巻 p. 123-127
    発行日: 2012年
    公開日: 2020/03/09
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