本稿では、日本語学習者にとっての敬語学習の意味についての考察を深めることを目的に、敬語学習に向き合おうと思えない状態にあった学習者Kの事例を分析した。学習者Kは、これまでどのような経験で何を感じてきたのか、成功経験と失敗経験のエピソードを切り口に、敬語学習への向き合い方を方向付けていた意識や認識を質的分析により明らかにした。具体的には、学習者KのインタビューデータをSCAT(大谷2019)を用いて分析し、3つのパートに分けてストーリーライン(SL)を書き、理論記述を行った。
SL1(これまでの敬語学習)からは、①対人的な意識の違いを理解するのが難しい場合、敬語使用に疑念を抱くことがある、②敬語学習に費やす時間的な負担を予測できる場合、敬語学習に向き合うことを躊躇し得る、という2つの理論記述を行った。SL2(成功経験と失敗経験)からは、①緊張感や躊躇を乗り越えて挑んだ敬語使用によって「褒められ」の経験をするといった成功経験は、幸福感までをももたらす、②敬語の能力不足がコミュニケーションのやりとりを途絶えさせるといった失敗経験は、さらなる学習の必要性を痛感させる、③成功経験で得た手ごたえと、失敗経験で痛感した難しさの波に揺さぶられながら、学習者は自分が欲する敬語使用のあり方を模索する、という3つの理論記述を行った。最後のSL3(これからの敬語学習)では、敬語学習は大切だが大変であるという認識が他者にもなされていることにより、安心感を得る、という1つの理論記述を行った。
最後に、これらの結果を期待価値理論および動機付け研究の知見に基づいて考察した上で、敬語教育は、敬語学習に向き合うか否かの選択は学習者に委ねられているという前提に立ち、学習者が、敬語学習との向き合い方に関して模索や葛藤ができる基盤を形成する場となることが重要であるという考えを示した。敬語の使い方が自己表現につながるという認識を学習者が持ち、自分にとっての敬語について考えることで、学習者個々の日本語でのコミュニケーションを「自分らしさという彩」を帯びたものにできるという考えを示した。