2021 年 53 巻 1 号 p. 25-32
本研究は,1919年に長野県神川村で始まった山本鼎の農民美術運動について,同時代の思想や制度における位置づけと,現代に至る受容を明らかにすることを目的とする。当時,「農民」には資本主義や都市文明への対抗を象徴するキーワードとしての意味合いが付与されていた。一方で,農民美術は農村振興のための副業として位置づけることで,広く社会へと受け入れられた点に特徴がある。ここには,経済活動を前提とした上で,美術を通して農村社会が抱える課題を解決しようとした現実的な方策が見られる。また,農村における「創造的労働」の実現を目指した山本の理念には,社会教育としての意義も見出される。農民という言葉の持つ意味合いが大きく変化した現在もなお,農民美術は長野の伝統工芸として受け継がれている。100年間にわたる受容の変遷を辿ることで,新たな文化運動が伝統として定着していく地域文化創造のプロセスを示した。