明治5年に公布された「小学教則」では,「罫画」の教科書として,『西画指南』(明治4年)を使用するように明記されていた。そこで本稿では,今まで分析対象となってこなかった『西画指南』の序文と凡例を検討した。さらに,川上冬崖が翻訳した『西画指南』の原著書である1853年版のThe Illustrated London Drawing-Bookと1856年版のThe Illustrated Drawing-BookのINTRODUCTIONを分析した。川上は,このINTRODUCTIONの部分は翻訳してなかったからである。その結果,次の4つの判断と仮定が導き出された。①『西画指南』の原著書が日本にもたらされることに関して,イギリス留学経験をもつ町田久成が関係していた。②「学制原案」での唯一の造形科目である「墨画」は,鉛筆画のことである。③その「墨画」が「罫画」として「学制」に登場したのではないか,と推測できる。④「罫画」の内容は,フリーハンドで完璧な線や曲線を画かせて,最終的には幾何形体を基礎にした「図面」を作成するプロセスと練習方法であった。