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クエリ検索: "ガラテヤの信徒への手紙"
27件中 1-20の結果を表示しています
  • 深津 容伸
    山梨英和大学紀要
    2014年 13 巻 1-8
    発行日: 2014年
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    キリスト教には、初代キリスト教の段階で適応主義を取る者たちがおり(その傾向はイエス・キリストの活動の中にすでに見られるものである)、彼らは異邦世界で生まれ育ったユダヤ人たちだった。彼らはユダヤ教徒であったが、イエス・キリストを信じる信仰に生き方を変えられ、ユダヤ教の戒律(律法)による生き方を否定した。このことによって、キリスト教はユダヤ教から脱し、異邦世界へと大きく発展することになる。その広がりの中で主要な役割を担い、キリスト教の理論的基礎を築いたのがパウロだった。彼はギリシア世界への伝道者、使徒としての使命への自覚のもとに、伝道に乗り出していく中で、ガラテヤ人と出会う。彼らはヨーロッパのケルト民族のガリア人の移民を先祖としていた。本稿では、彼らへの手紙である「
    ガラテヤの信徒への手紙
    」を通し、パウロの適応主義がいかなるものであったかを探る。そしてそのことによって、日本におけるキリスト教のあり方へと指針となるような考察をしていきたい。
  • ―Blighのキアスムス構造を前提として―
    大喜多 紀明
    人間生活文化研究
    2023年 2023 巻 33 号 561-574
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/11/24
    ジャーナル フリー

     本稿では,新約聖書に収納された巻であるガラテヤ人への手紙が裏返し構造であるか否かを検証した.その際,当該テキストにおける既知の構造的キアスムスである,Blighが考案した図式を前提に,かかる図式を構成する要素対が対照的な関係であるか否かを確認することによる判別をおこなった.本稿の分析の結果,当該図式を構成するすべての要素対が対照的な関係であることが明らかになったため,テキストは裏返し構造であることがわかった.

  • 恩恵と自由意志をめぐる一考察
    岡嵜 隆哲
    日本の神学
    2009年 48 巻 48-78
    発行日: 2009/08/28
    公開日: 2011/11/09
    ジャーナル フリー
    Though Augustine's view of the relationship between divine grace and man's free will has been one of the most controversial issues on his thought, there is still no consensus of opinion on it. His theory of grace was completed in Ad Simplicianum in 396, through the central idea “congruous calling”, which accomplished an intricate synthesis of grace, free will and predestination. The theory, however, has often been mistakenly understood as moral determinism. It is necessary to take into account the sequence of his works to interpret the point. In the same year, he also wrote De agone christiano, which emphasized the Christian struggle especially in the stadium of the heart. The next year, he began to write Confessiones, in which Augustine describes the conflict within his own mind in his conversion experience. It is worthless to dispute either grace or free will without concrete situations for each individual. Each man must confront the conflict through his own faith, but for Augustine, it was only grace that enabled man to struggle with himself.
  • ホセ・ヨンパルト
    法哲学年報
    2003年 2002 巻 8-20
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2008/11/17
    ジャーナル フリー
  • 松尾 訓宏
    日本フランス語フランス文学会中部支部研究論集
    2017年 41 巻 47-69
    発行日: 2017年
    公開日: 2019/07/25
    ジャーナル フリー
  • 樋口 進
    夙川学院短期大学教育実践研究紀要
    2019年 2019 巻 13 号 3-8
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/04
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
     夙川学院に短期大学が設置されたのは、1965 (昭和40)年1月25日であり、同年4月20日に開学式を挙行して、教育が開始された。このとき、短大の教育理念は特には定められなかったが、戦後夙川学院が教育理念とした「キリスト教精神」は前提であったようである。しかし、礼拝とかキリスト教の授業科目を配置するということはなかった。ただ、入学式や卒業式が礼拝形式で行われ、またクリスマス行事などもあり、ここにわずかに「キリスト教精神」が生きていたと言うことができる。『九十年史』には、二代目学長の高木俊蔵の文として次のように記されている。「夙川学院は古くから宗教的情操教育を重視し、短大も創設以来この伝統を守ってきた1。」そして、短大の「教育理念」としては、1980 (昭和55)年に次のように定められた。すなわち、「愛と誠実」「清新な学識」「清楚にして優雅」である。これは、短期大学 教授の増谷くらの提案をもとにして専門委員会、教授会で検討したものということである2。『百年史』には、次のようにある3。「第一項では女性といわず、人間として基本的に求められる項目が述べられ、第二項では、教養豊かにして、専門とする学識に秀で、技能に熟達した女性が、社会の発展に寄与することを願い、短期大学が教授するものは、諸学•技術の基礎から、現代におけるその展開•応用に至ることを示唆している。そして学生が、自発的に研鑽し、探究心 を深めてくれるように願っているのである。第三項では、本学の学生が歴史と伝統に育まれた夙川学院の構成員としての自覚と誇りを持って、しかも学生らしく清楚であって、言動優雅であることを希求しているのである。」この中で、第一項の「愛と誠実」に関しては、夙川学院が戦後教育理念としたキリスト教思想を反映したものと思われる。イエス•キリストは、最も重要なこととして、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということと、「隣人を自分のように愛しなさい」ということを教えた(マタイによる福音書22:37-39、マルコによる福音書12:29-31)。また、イエス•キリストは、「正義、慈悲、誠実を最も重要なこととして行うべきだ」と教えている(マタイによる福音書23:23)。以下、聖書において「愛」と「誠実」がどのように言われているかについて検討したい。
  • 奥田 潤, 森本 和滋
    薬史学雑誌
    2019年 54 巻 1 号 39-52
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/07/09
    ジャーナル フリー
    In this report, popular love, love in Christianity, and mercy in Buddhism were studied and compared.  1. Popular love : Self-first love. When there is disappointment in the love shown, the deeper the love is, the more violent the hatred shown ; leading to death on rare occasion.  2. Love in Christianity : Christianity is a connection between God, Jesus Christ, and a person. Love in Christianity is expressed by the words of Jesus Christ, “You shall love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind. This is the great and first commandment.” (Mathew 22 : 37-38). He also said, “And a second is like it. You shall love your neighbor as yourself.” (Matthew 22 : 39)  3. Mercy in Buddhism : In Buddhism, popular love is not recommended, because popular love includes hate as a part of love. However, mercy is the basis of Buddhism and contains the qualities of affection, compassion and sympathy.  For patients, pharmacists should know each original meaning of popular love, love in Christianity, and mercy in Buddhism.
  • 大貫 隆
    生活大学研究
    2015年 1 巻 1 号 2-7
    発行日: 2015年
    公開日: 2016/08/15
    ジャーナル フリー
    R・ジラールの文化人類学によれば,供犠とは「いけにえ」の上に共同体の攻撃性を集約することで,内部の平和と秩序を基礎づけ保持してゆくメカニズムである.イエスの「神の国」はユダヤ教の贖罪の供犠を終わらせるもの,従ってユダヤ教の禁忌を破るものと見做され,イエスは排除された.パウロと四つの福音書もその次第を報告するが,彼ら自身がイエスの死を供犠と見做している箇所は一つもない.ジラールによれば,まさにそこにこそ,現代が供犠的キリスト教に対する根本的な批判を試みるための最大のチャンスがある.ところが,現実のキリスト教では受難と供犠が頻繁に混同されている.S・ヴェイユと鈴木順子氏の学位論文においても両者が混在し,繰り返し同義的に用いられている.私の見方では,両者は出来事としては同一であるが,「供犠」はその出来事を自己存続を図る共同体から見た場合の概念,「受難」は供犠として奉献される者から見た場合の概念として,アスペクト上互いに明確に区別するべきである.
  • 田村 均
    哲学
    1996年 1996 巻 47 号 207-216
    発行日: 1996/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    The aim of this paper is to show the consistency of Locke's philosophy of natural science. Most of Locke scholars have wrongly assumed that his way of ideas contains an intrinsic difficulty about the reality of the external world. This paper makes it clear, however, that Locke deals with epistemological problems in terms of the distinction between facts and theory, not between the internal and the external. Locke does not admit that human beings can obtain a justified universal theory about the physical constitution of the world. But he happily affirms that they can be justified, by means of “simple ideas of sensation”, in believing in particular facts about the external world. Locke's conception of science is essentially Baconian and his way of ideas, a Cartesian inheritance, is shaped up within his Baconian scheme.
  • 創世記一六章の解釈を手掛かりにして
    出村 みや子
    宗教研究
    2019年 93 巻 2 号 135-161
    発行日: 2019/09/30
    公開日: 2020/01/07
    ジャーナル フリー

    教父のジェンダー理解を知る上で、教父文書が構成において高度に文学的かつ修辞学的であることを示したエリザベス・クラークの視点が有効である。本稿では正統信仰確立の過程でどのようにジェンダーバイアスが生じたかを三位一体論や反異端論争の事例を通じて考察し、次に創世記一六章の解釈に焦点を当てて考察した。教父たちは聖書解釈を様々な論争に効果的に利用したが、特に結婚と禁欲の価値をめぐる論争では、貞節な結婚は当時のローマ社会の男らしさの表明であり、厳格な性的禁欲主義はキリスト教の修道制が提示した新たな男らしさの定義であったゆえに、夫であれ、教会指導者であれ、女性が男性の指導下のもとに置かれることに変わりはない。他方でアレクサンドリアのクレメンスは、宗教教育における徳の追求には本性的に男女の差を認めておらず、こうした男女平等主義がローマ帝国におけるキリスト教の急速な拡大や女性の地位の向上につながったと考えられる。

  • 深津 容伸
    山梨英和大学紀要
    2013年 12 巻 1-7
    発行日: 2013年
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    これまで日本人とキリスト教の主題について、キリスト教に焦点を当て、キリスト教が日本人にどう関わってきたか、今後どう関わるべきかを論じてきた。本論文においては日本人に焦点を当て、日本人の宗教観、宗教意識を探り、それらに対し、キリスト教はどのように関わりえるかを考察したい。日本人は古来から大陸からの影響を多大に受けてきたが、政治的に支配を受けることはなかった。そのためかどうかは定かではないが、原始宗教であるアニミズム・シャーマニズムの宗教意識を、今日に至るまで持ち続けている(外来の宗教である仏教もこれらと同化することにより土着することができた)。その結果、日本人は宗教意識の中には、呪いや汚れに対する恐れが潜在的に存在する。こうした日本人の宗教意識に対し、キリスト教はどのように関わってきたか、また関わりえるかを論じたい。
  • ミシェ・アンリのことばの概念を手がかりに
    古荘 匡義
    宗教哲学研究
    2011年 28 巻 59-69
    発行日: 2011年
    公開日: 2019/09/18
    ジャーナル フリー
  • 村井 源, 徃住 彰文
    人工知能学会論文誌
    2006年 21 巻 6 号 473-481
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/08/23
    ジャーナル フリー
    This paper introduces a method of representing in a network the thoughts of individual authors of dogmatic texts numerically and objectively by means of co-citation analysis and a method of distinguishing between the thoughts of various authors by clustering and analysis of clustered elements, generated by the clustering process. Using these methods, this paper creates and analyzes the co-citation networks for five authoritative Christian theologians through history (Augustine, Thomas Aquinas, Jean Calvin, Karl Barth, John Paul II). These analyses were able to extract the core element of Christian thought (Jn 1:14, Ph 2:6, Ph 2:7, Ph 2:8, Ga 4:4), as well as distinctions between the individual theologians in terms of their sect (Catholic or Protestant) and era (thinking about the importance of God's creation and the necessity of spreading the Gospel). By supplementing conventional literary methods in areas such as philosophy and theology, with these numerical and objective methods, it should be possible to compare the characteristics of various doctrines. The ability to numerically and objectively represent the characteristics of various thoughts opens up the possibilities of utilizing new information technology, such as web ontology and the Artificial Intelligence, in order to process information about ideological thoughts in the future.
  • 科学技術に対する宗教倫理的批判のために
    小原 克博
    宗教と倫理
    2016年 2016 巻 16 号 3-17
    発行日: 2016年
    公開日: 2020/01/29
    ジャーナル フリー
    3.11東日本大震災以降の日本の宗教研究において、宗教と公共性の関係が大きな主題として取りあげられてきた。そこでは主として復興支援における宗教の固有の役割が問われてきたが、同時に、原発に代表される科学技術に対し、宗教が独自の倫理的批判をなし得るのか、という問いも重要な位置を占めた。近代国家における公共性は「現代世代」の「人間」の利益を最大化することを前提とし、科学技術はそのための道具とされてきた。こうした近代的枠組みを批判し、過剰に人間中心的でも、現代世代中心的でもない倫理規範を提示するためには、死者との対話や未来世代への責任意識が欠かせない。これら過去および未来における不在者を記憶・想像することは、現在の存在者である我々に対し、具体的な倫理的責任を喚起させる。本論文では、それを「不在者の倫理」としてとらえ、その基礎付けを行う。それは公共性の中に宗教をいかに位置づけるかではなく、宗教の中に閉じ込められてきた「公共性」を解放する試みとして展開される。その際、宗教一般の可能性を問うだけでなく、キリスト教を事例として取りあげ、科学技術に対する宗教倫理的批判の要点を示す。
  • 茂 牧人
    シェリング年報
    2023年 31 巻 52-64
    発行日: 2023/07/01
    公開日: 2023/07/01
    ジャーナル オープンアクセス
    Schelling studierte von1790 bis 1795 Theologie in Tübingen. Nicht nur in Deutschland, sondern auch in Japan hatten viele Forscher diese Zeit Schellings beschrieben. In den vergangenen Jahren erfolgte jedoch eine neue Veröffentlichung von F. W. J. Schelling: historisch- kritische Ausgaben, in denen nicht nur Kommentare zum Alten Testament und zum Evangelium Johannis, sondern auch Kommentare zum Römerbrief und zum Galaterbrief enthalten werden. Damals schrieb Schelling unter starken Einfluss Kants diese Kommentare zu den zwei Briefen des Paulus gegen die alte traditionelle Theologie geschrieben. Hier lege ich dar, dass Schelling diese zwei Kommentare zu den Briefen des Paulus als Bücher der sittlichen Revolution erfasst, die uns vom mosaischen Gesetz befreien und in die moralische Gesinnung (das Gesetz der Freiheit im Kantischen Sinne) führen, die auf den Begriffen "Glauben" und "Geist" in den zwei Briefen beruht. Meiner Meinung nach hat Schelling später das Problem der Freiheit und des Bösen aufgrund dieser Forschungen über jene zwei Briefe entwickeln können.
  • (宗教改革500年の旅-わたしたちは何処からきて、何処へ向かっているのか?-「県民コミュニティーカレッジ2017」レポート)
    荒井 直
    山梨英和大学紀要
    2017年 16 巻 121-146
    発行日: 2017年
    公開日: 2020/07/21
    ジャーナル フリー
    E. M. フォスターの小説『眺めのいい部屋』(1908年)に、フィレンツェのサンタ・クローチェ寺院で、ジョットの壁画を前に、イギリス人牧師が同じ国から来た観光客に次のように語る場面がある。「この教会が、ルネサンスの汚染が現れる以前、中世のまことに篤き信仰心から建てられたことを思い出してください。このジョットのフレスコ画は、あいにく今では修復によって損なわれてしまってはおりますが、これらがいかに解剖学や遠近法の罠にとらわれずにいるか、ご覧ください」。当時のフォスター(を読むほどの階級)の読者には、この牧師の言葉が、中世美術礼讃者で(ありオックスフォード大学スレイド美術講座教授でも)あったジョン・ラスキンの『フィレンツェの朝:イギリス人旅行者のための手短なキリスト教美術研究』(1875-77 年)の安直な受け売りであることが分かったのではないだろうか。ジョットの壁画を、ルネサンス美術の嚆矢とすべきか中世美術最後の達成とすべきか、あるいは、それ以外の把握の仕方があるのか、私は知らない。しかし、ルターの神学が、 宗教改革という「汚染が現れる以前」の「中世のまことに篤き信仰心から建てられた」ものであり、 今私たちが当たり前だとするルター像は、もしかすると、プロテスタント(とくにルター派)の神学や教理史による「修復によって損なわれてしまって」いるのではないか、という疑問は当然あり得るだろう。『眺めのいい部屋』の牧師は悪役であるが、この疑問について、彼と同じように先学の著作の受け売りをするという悪役をつとめ、さらに、宗教改革に帰結したルターの「神学的突破」をもたらした「中世」的背景を、もう少し大きな窓から眺めるというのが、附論2での私の課題である。 受け売りなので引用が多く読みにくく、かつ講座参加者とのティータイムのトークで与えられた課題に長めの注で対応したりしたのでくどいエッセイではなってしまったのではないかと危惧するが、キリスト教の現状や人間の文化の来し方行く末について思いを廻らせる一助となればと念う。
  • 高田 信良
    宗教研究
    2009年 83 巻 2 号 503-524
    発行日: 2009/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    <仏教には、倫理、とりわけ、社会倫理が欠如している>との批判がある。倫理が、なんらかの超越的実在に規定されるような道徳・社会的規範、あるいは、社会形成力を持つ規範などと理解される場合には、たしかに、そうであろう。仏教は、「出世間」の宗教であり、「世間」(社会生活)で価値形成的にはたらく行為規範を教えるものではないからである。現代のグローバル化状況における<宗教多元>は<価値多元><倫理多元>でもある。宗教が倫理的生の周縁部へと追いやられてしまっているだけではない。人間的な存在欲求の直接的なぶつかりあいのなかで倫理不在でもある。個々の宗教倫理、市民社会の倫理などの混在状況において、各々は、互いに限定的なものであり、かつ、独自なものであることを際立たせ合っている。<宗教と倫理>(の異同/関係)が関心事とされることにより、各々の宗教における実践(宗教倫理)のアイデンティティが問われてくる。仏教における実践性は、仏教徒の行う世俗倫理にあるのではなく、<仏教徒になる>ところにあるのではないだろうか。「念仏の教え」に焦点を当てつつ考えてみたい。
  • 『無の自覚的限定』における西田とアウグスティヌス
    高谷 掌子
    西田哲学会年報
    2020年 17 巻 122-136
    発行日: 2020年
    公開日: 2022/03/11
    ジャーナル フリー
      This paper explores the meaning of neighborly love in the temporality as the “eternal now”, found in The Self-Aware Determination of Nothingness by Japanese philosopher Nishida Kitaro. Through the development of this work, Nishida shows considerable empathy toward the concepts of love and time by Augustine. However, whether these concepts can support neighborly love has been debated. Augustine limits love for neighbors by adding the condition “only in God”. However, God and neighbors exist in different temporalities; God is eternal, while neighbors are to be lost with time. Nishida develops this point by attempting to define time as “eternal now”. Inspired by Eckhart and Augustine, Nishida develops the concept of time as “eternal now” and “continuity of discontinuity” to depict the exact moment when continuous time emerges from eternity. In such a moment, the continuity of “I” as well as “you” is questioned. His “dialectic of self-love and other-love” leads to the conclusion that “I” can be myself and “you” can be yourself only by loving each other in the “eternal now”—the nexus where history and the creation of God begin.
  • 上野 友也
    平和研究
    2005年 30 巻 99-121
    発行日: 2005/11/10
    公開日: 2024/06/05
    ジャーナル フリー
  • 権利・共感・宗教モデルの可能性
    鬼頭 葉子
    豊田工業大学ディスカッション・ペーパー
    2022年 24 巻 3-20
    発行日: 2022/02/07
    公開日: 2023/11/14
    研究報告書・技術報告書 フリー
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