詳細検索結果
以下の条件での結果を表示する: 検索条件を変更
クエリ検索: "三平" 石工
20件中 1-20の結果を表示しています
  • 石橋 知也, 松田 知己, 東郷 浩樹, 柴田 久
    土木学会論文集D3(土木計画学)
    2022年 78 巻 6 号 II_273-II_284
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/04/20
    ジャーナル フリー

     石積みは,伝統的・文化的な風景を構成する重要な要素であるものの,被災した石積みの復旧方針・方法は自治体によってばらつきがあり,箇所ごとの対処にならざるを得ない状況にある.本研究は,平成24年九州北部豪雨によって被災した農村地区を有する自治体(うきは市,久留米市,八女市,伊万里市,武雄市,諫早市,大村市)での石積みの復旧実態,重要文化的景観を有する自治体(豊前市,唐津市,長崎市,平戸市,小値賀町)における被災した石積みの復旧実態,について職員へのヒアリング調査と現地調査から明らかにすることを目的とする.その結果,1)石積み復旧を促進する基準の見直し,2)石積み復旧に対する制度運用の有効性と課題,3)重要文化的景観における空石積み復旧の実態,4)重要文化的景観をめぐる課題への対応策,について指摘した.

  • 石崎 正和
    土木史研究
    1993年 13 巻 543-550
    発行日: 1993/06/01
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 岡山県を中心とした実態調査
    樋口 輝久, 馬場 俊介
    土木史研究
    1998年 18 巻 363-372
    発行日: 1998/05/01
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本論文は、城郭の石垣以外にあまり評価されてこなかったわが国の石造構造物の中に、石を円弧状に長く巻いて積む「巻石」と呼ばれる美しい権造物の一群があることに着目し、その種類、地域、時代、目的などを調査した第一報である。現時点で判明している限り、「巻石」構造の起源は、戦国末期から江戸初期にかけて治水戦略上の目的で造られた水刎 (はね) に求めることができる、以後、岡山、熊本を中心として治水、河川舟運用の各種水制工、避難港の防波堤などで「巻石」構造のさまざまなバリエーションが造られてゆき、昭和戦後になってほとんどすべての構造物がコンクリート化されるまで続く。「巻石」構造の特徴は、西欧のそれとは大きく異なり、断面方向にも、長手方向にも曲面が用いられている。それは、技術の限界と、自然の力に逆らわない発想とが融合することで生まれた巧みなフォルムであるが、そこに日本ならではの美を感じることも、今日的には重要な価値観ではないかと感じている。
  • 讃岐農村研究 第一報
    河野 一夫
    地理
    1940年 3 巻 3 号 381-396
    発行日: 1940/07/01
    公開日: 2010/03/19
    ジャーナル フリー
    以上述べて來た諸點を要約列記すれば次の如くなるであらう。
    (1) 麥稈眞田生産業は、讃岐平野の農村につきての地理的性格の研究に深い關聯を持つ。特に我が國に於ける分布が瀬戸内に偏在して居る爲に、麻眞田、經木眞田等に比し檢討すべき幾多の問題をもつ。
    (2) 今、本邦に於ける生産地を産額上より區分すれば次表の如くなる。以て讃岐の地位を知り得る。
    一、副次的生産地域 a神戸地域 (漂白加工業) b備後地域 (四菱地域) c安藝地域 (四菱地域)
    二、核心的生産地域 a備中平野地域 (五菱、意匠品地域)
    b讃岐平野地域
    c備讃瀬戸内諸島嶼 (四菱地域)
    1高松平野地域 (四菱意匠品地域) 2丸龜平野地域 (五菱意匠品地域)
    その各々の地域的個性について述べた。その際特に讃岐農村との比較上、備中平野地域を詳述し、その生産品種上より見たる地域區分を第五圖の如くなした。
    (3) かゝる相異の決定要因追究の爲に、次に擧げたる四地域の微細耕作景の調査をなし、それが利用方法に關する實際的調査と照合して、分布決定要因としての役割を述べて置いた。 (第二表) 調査地域は
    一、岡山縣淺口郡金光町裏見新田 一、岡山縣淺口郡黒崎村沙見海岸 一、香川縣香川郡一之宮村市場 (第六圖、第七圖) 一、香川縣香川郡川岡村松面 (第八圖、第九圖) である。
    (4) かくして目的の讃岐農村の性格の一部分は把握し得た。
    最後に本稿は、筆者の東京高師研究科卒業論文の一部分を拔書した爲本稿のみでは説明に不充分の所もあるが夫は他日を期したい。尚御懇特な御指導をいたゞいた田中先生始め教室の諸先生方並に調査現地關係の諸賢に謝意を表して擱筆する。
  • 史学雑誌
    1976年 85 巻 8 号 1226-1245
    発行日: 1976/08/20
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー
  • 出口 米吉
    東京人類學會雜誌
    1906年 21 巻 241 号 258-265
    発行日: 1906/04/20
    公開日: 2010/06/28
    ジャーナル フリー
  • 平林 武
    地質学雑誌
    1897年 5 巻 50 号 41-59
    発行日: 1897/11/20
    公開日: 2008/04/11
    ジャーナル フリー
  • 清水 慶一
    日本建築学会論文報告集
    1981年 307 巻 142-150
    発行日: 1981/09/30
    公開日: 2017/08/22
    ジャーナル フリー
    明治初期の初等・中等建築教育の研究によって次のことが明らかとなった。従来の研究においては, 明治19年以前の初等・中等建築教育の状況について, 「まだまったく未開の時代」とされていた。確かに工部大学校を除き, 当期においては体系的な建築教育は行われ得なかった。しかし, 現実的必要性から, あるいは技術教育の試行として, 少なくとも建築関連教育は行われていた。工部省各寮司においてはその職制に技術伝習を含む課を持ち, その事務章程に建築関連分野を含む場合もあった。特にここでは邦人技術者の不足を補うため, きわめて実践的で速成的な技術教育が行われた。本論では各寮司及び横須賀黌舎における建築に関連する技術伝習の内容を示した。特に鉄道局工技生養成所については, その内容を詳細に分析し, 如何に速成的で実践的であったかという点, 及びその内容は土木的工作技術を中心としながらも, 建築技術に転用のきくものであったかという点について, 岡田時太郎を例として検討を行った。次に, 幕末よりの伝統を受けつぐ家塾的教育機関においても建築技術の教授が行われていたことを, 攻玉社・開工舎を例に示した。特に開工舎については当期唯一と言える建築専門教育機関であること, 従来の和風の伝統的な建築技術を中心に教授されたこと, 及び開工舎出身あるいは立川に師事した山崎慶次郎・山本治兵衛のその後の活動より開工舎の存在は明治初期の建築教育機関として看過し得ないものであるという三点につて論述した。一方, 明治初期に後の実業補習学校に類似する教育形態を持つ東京府庶民夜学校が開設され, その教科中には建築関連教科が含まれていた。これはわずか2年で廃止されるが, 所在区によっては継続の要望強く, ひき続き区立として継続された学校もあった。最後に, 本格的な中等建築教育の起点と言われる東京商業学校付属商工徒弟講習所木工科以前の文部省系諸学校における建築関連教育機関として, 東京開成学校製作学教場をとりあげ分析を行った。同教場製作科においては指物・挽物という木工製作の教育が含まれるべく教程が組まれた。この製作学教の教程は開成学校で行われた他の教育内容に較べれば多分に実践的であった。しかし前述した当期の他の技術教育機関でとられた教育に較べればなお系統的であった。以上のように, 明治初期には様々な教育機関において様々な形の建築教育が行われた。本稿の主題はこの時期にどの様な建築教育が行われたかを知ることにある。従って以上に示した如く, その関連教育機関とその教育内容の分析を行うことによって本稿の目的は達成されるが, 稿をとじるにあたって一・二の問題点を指摘しておきたい。明治初期においては立川知方の開工舎を除き, 明瞭に中等建築教育と呼び得るものは存在しなかった。またこの開工舎も西欧技術教育という観点より見れば, 特殊な教授内容であった。このように, 当期の中等建築教育は土木的工作技術あるいは物品の製作技術を中心とし, 建築教育はその関連領域に含まれていた。つまり本来の建築教育(Architectural Education)のうち, 即物的技術教育に中心が置かれ, 建築の重要な側面である芸術性(ArtまたはArt Manufactureなど)の視点が欠落していたことを特徴とする。これは当期の状況より止むを得ぬとは言え, 我が国の中等建築教育はこの種の即物的技術教育より出発したということを確認しておきたい。翻って考えれば, 岡田時太郎・山本治兵衛など, 明治初期の中等建築教育機関出身者達は建築の芸術的分野をその後の経験によって身につけたと考えられる。一方, 明治初期の初等・中等建築教育機関は本稿においてほぼ網羅した。これ等の機関中工部省諸寮司及び家塾的専門教育機関における技術教育は, 当時稀少の西欧建築技術教育であり, 中堅建築技術者養成に関る機関として当期においては重要な位置を占めた。従って今後明治期の中堅建築技術者の研究が進むにつれ, これ等各校出身者が発見される可能性は強いと考えられる。
  • 沖縄水史観(Ⅳ)
    山口 晴幸
    水利科学
    2007年 51 巻 3 号 25-68
    発行日: 2007/08/01
    公開日: 2017/11/03
    ジャーナル フリー
  • 柏木 裕之
    建築史学
    2006年 46 巻 53-80
    発行日: 2006年
    公開日: 2018/08/17
    ジャーナル フリー
  • 東南アジア -歴史と文化-
    1980年 1980 巻 9 号 153-180
    発行日: 1980/02/25
    公開日: 2010/03/16
    ジャーナル フリー
  • 溶接学会誌
    2016年 85 巻 1 号 72-106
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/04/11
    ジャーナル フリー
  • 渡辺 尚
    土地制度史学
    1966年 8 巻 4 号 14-42
    発行日: 1966/07/20
    公開日: 2017/09/30
    ジャーナル フリー
    In Rhein und Westfalen, den fortgeschrittensten Provinzen im Konigreich Preu&ss;en, begann die industrielle Revolution schon im An fang des 19. Jahrhunderts, und bis die Mitte dieses Jahrhunderts erreichte die Industrie eine neue Stufe in den Produktionskraften. Der eigentumliche Erfolg dieses Prozesses war die allseitige Entfaltung der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit. Noch dazu konzentrierten sich viele wichtige Industriezweige in die verhaltnisma&ss;ig begrenzte Gegend. Besonders machte die Teile der Regierungsbezirke Dusseldorf, Arnsberg, Koln und Aachen zusammen ein einheitliches industrielles Zentrum. Diese konvergente Tendenz der industriellen Lokalisation in der Periode der industriellen Revolution wurde auch von der Bevolkerungsbewegung klar dargestellt. Was war dann der eigentliche Markt fur die Industrie in dieser Gegend? Er war nicht anders, als die innere Absatzquelle, die gerade die dortigea Industriezweige selbst sich einander boten. Dagegen kann die Bedeutung des ostelbischen Marktes fur die westelbische Industrie nicht so hoch geschatzt werden. Au&ss;erdem war Provinzen Rhein und Westfalen auch in den Agrarproduktionskraften nicht so niedrig, und daher erganzten Landwirtscht und Industrie sich einander. Also war der Inhalt des inneren Markts in den beiden Provinzen so gro&ss;, da&ss; sie an sich eine selbstandige Reproduktionsstruktur machte. Es scheint daher, als ob es an einer wirtschaftlichen Notwendigkeit fur die Verbindung der westlichen und ostlichen Teile des Konigreichs Preu&ss;en gefehlt hatte, wie Max Weber schon darauf hinwies. Warum mu&ss;te Provinzen Rhein und Westfalen, trotzdem, mit dem ostlichen Gebiet verbinden? Um diese Aporie wirtschaftlich zu losen, mu&ss; die andere Phase des nationalen Markts, besonders die Entfaltung und die Organisation des Finanzmarkts aufs neue untersucht werden.
  • 中世文学
    1970年 15 巻 31-84
    発行日: 1970年
    公開日: 2018/02/09
    ジャーナル フリー
  • 松下 禎二
    衛生學及細菌学時報
    1906年 2 巻 1-261_9
    発行日: 1906年
    公開日: 2011/06/17
    ジャーナル フリー
  • 隠岐島後の玉若酢命神社本殿・水若酢神社本殿の寛政度造営を中心として
    光井 渉
    建築史学
    1998年 30 巻 2-39
    発行日: 1998年
    公開日: 2018/09/13
    ジャーナル フリー
  • 肺癌
    1978年 18 巻 Supplement 号 68-116
    発行日: 1978/07/31
    公開日: 2010/10/22
    ジャーナル フリー
  • 日本腎臓学会誌
    1990年 32 巻 12 号 1284-1337
    発行日: 1990年
    公開日: 2010/07/05
    ジャーナル フリー
  • 胆道
    2005年 19 巻 3 号 191-192,235
    発行日: 2005/08/31
    公開日: 2012/11/13
    ジャーナル フリー
  • 日本微生物學會雜誌
    1918年 7 巻 1 号 62-91,205
    発行日: 1918年
    公開日: 2009/09/03
    ジャーナル フリー
feedback
Top