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クエリ検索: "世界の日本人"
19件中 1-19の結果を表示しています
  • 清 ルミ
    時事英語学研究
    1996年 1996 巻 35 号 1-14
    発行日: 1996/09/01
    公開日: 2012/11/13
    ジャーナル フリー
  • 課題研究II 教育の国際交流の改善に関する研究
    小林 哲也
    日本比較教育学会紀要
    1982年 1982 巻 8 号 37-41
    発行日: 1982/03/31
    公開日: 2010/08/06
    ジャーナル フリー
  • 昭和天皇逝去から平成天皇訪中までを中心に
    秋松 雅子
    時事英語学研究
    1994年 1994 巻 33 号 113-127
    発行日: 1994/09/01
    公開日: 2012/11/13
    ジャーナル フリー
  • 細谷 亨
    歴史と経済
    2022年 64 巻 4 号 56-58
    発行日: 2022/07/30
    公開日: 2024/07/30
    ジャーナル フリー
  • -教員調査による比較-
    *池﨑 喜美惠
    日本家庭科教育学会大会・例会・セミナー研究発表要旨集
    2012年 55 巻 A4-5
    発行日: 2012年
    公開日: 2014/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    【目的】
     世界51ヶ国・地域には88校の日本人学校が設置されており、日本国内の小・中学校と同等の教育を受けることを目的とした全日制の学校である。海外に在留する子どもたちの教育機関として、日本人学校は重要な役割を果たしている。本研究では、日本人学校の家庭科教育の現状がどのように変容しているか、2006年及び2010年に日本人学校の家庭科担当教員に調査した結果をもとに経年変化を検討した。そして、日本人学校の中学部の家庭科を指導する教員の属性や指導意識・方法の実態を考察し、今後の課題を明らかにすることを目的とした。
    【方法】
     2006(平成18)年6月及び2010(平成22)年11月、全
    世界の日本人
    学校88校へ調査票を送付し、回答を依頼した。前回調査(2006年調査の有効回収率は47.7%)の42校、今回調査(2010年調査の有効回収率は52.3%)の46校の中学部の調査票を分析対象とした。分析内容は、1)家庭科担当者の属性、2)家庭科の教育環境、3)家庭科の指導方法、4)現地理解教育の観点からの指導例、5)家庭科指導上の問題点など である。
    【結果及び考察】
     1)家庭科を指導する教員構成は、2006年調査も2010年調査も専任教員1名が約6割強、非常勤教員1名が約2割であり、女性教員が約7割を占め、ほぼ同様の傾向であった。しかし、年齢構成では2010年調査では20歳代の教員が多く、小・中学部を同一教員が指導する割合が増加した。また、家庭科の教員免許を所有する教員は25%と増加し、教育系出身者が約51%と増加したが、家庭科を専門的に学んでいない教員が、日本人学校の家庭科を指導しているという現状には変化がなく教員配置に課題が見出された。
     2)2010年調査では、複式学級で家庭科を指導しているケースが約41%であった。施設・設備の充足については、2010年調査では、「十分備わっている」が18.2%、「不足している」が20.5%であった。2006年調査より、施設・設備の充足率は進んでいるが、現状は両極化していることが判明した。また、文部科学省から給与されている家庭科の教科書を常時使用する教員は、やや減少してきた。そして、記述内容が現地の実情に適合していないために、使用しないという教員もいた。2010年調査では、生徒の家庭科への関心を「とてもある」と51.2%の教員が評価し、授業態度を「とても積極的」と52.3%が評価していた。2006年調査より、1割以上多い教員が家庭科に対する生徒の関心度や授業態度を高く評価していた。
     3)家庭科の指導方法として、「教科書を使用して講義」「実習を導入」をあげた教員が多いことには変化がなかった。しかし、「スライドやVTRを視聴」及び「現地にあった内容を導入」を列挙した教員が増加した一方、「家庭実践」や「調べ学習・発表」をあげた教員が減少した。このことから、定型化した指導方法と時代や現状にあった指導方法が混在しており、教員の指導の工夫が垣間見られた。
     4)海外で暮らす子どもたちにとって、現地の日常生活は家庭科の学習とリンクしていなければならない。家庭科での現地理解教育に関する指導例として、次のような実践例があげられた。調理実習では現地の材料を使用したり、現地の織物を糸から織りあげたりなど、現地のものに依拠した学習題材を利用していた。また、現地校との交流や校外学習を活用して、習慣やマナーについて扱ったり、衣類の取り扱い表示について日本とヨーロッパの表示を併記して教えたりしていた。さらに、家庭科にイマージョンを取り入れたり、仏語でお菓子作りの調理実習を行うなど、現地語を使用した家庭科の学習により、現地生活への適応を配慮していた。 
     5)家庭科指導上の問題点として、両調査とも「教員の専門性の欠如」を半数以上の教員が列挙していた。しかし、「教科書にそって進めるとギャップがでてしまう」「教材不足」「被服製作の材料不足」「授業時間数の不足」などの問題点を列挙する教員は減少した。 以上のことをふまえると、日本人学校の家庭科指導には、教員配置の問題は顕在化しているが、施設・設備や実習教材の入手などは情報化の進展により改善されてきていることが明らかとなった。
  • ―西村勝已氏論文「本来の武道と政策としての武道」を中心に―
    志々田 文明
    武道学研究
    1985年 18 巻 1 号 46-51
    発行日: 1985/07/31
    公開日: 2012/11/27
    ジャーナル フリー
  • 田中 史郎
    社会科教育論叢
    1989年 36 巻 20-25
    発行日: 1989/03/15
    公開日: 2017/07/01
    ジャーナル フリー
  • 羽田 潤
    全国大学国語教育学会国語科教育研究:大会研究発表要旨集
    2015年 129 巻
    発行日: 2015/10/24
    公開日: 2022/03/25
    会議録・要旨集 フリー
  • 戸田山 みどり, 工藤 隆男, 森 大祐, 中村 嘉孝, 佐藤 久美子, 金子 仲一郎
    八戸工業高等専門学校紀要
    2010年 45 巻 83-88
    発行日: 2010/12/21
    公開日: 2018/11/02
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 藤津 滋生
    大学図書館研究
    1984年 24 巻 81-85
    発行日: 1984/05/31
    公開日: 2018/11/09
    ジャーナル オープンアクセス
  • 野田 一郎
    日本音響学会誌
    1989年 45 巻 3 号 192-198
    発行日: 1989/03/01
    公開日: 2017/06/02
    ジャーナル フリー
  • 篠原 助市
    教育学研究
    1940年 9 巻 7 号 665-683
    発行日: 1940年
    公開日: 2009/01/13
    ジャーナル フリー
  • 岡部 隆志
    日本文学
    1995年 44 巻 11 号 11-21
    発行日: 1995/11/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
    近代になって登場する民族は、普遍的意志に従属する郷土愛といった感情的要素によって成り立つ。従って、全体主義のような普遍的意志の暴走は民族的感情が原因と見なされ、民族は「おくれたもの」もしくは克服の対象であった。しかし、そのような民族観は見直されるべきである。例えば、柳田国男の民族観は、外縁が自覚されず全体を指向する普遍的意志をもたない言わば身体感覚に近い。そのような民族観を不均質なわれわれの一つの姿として思い描くことがあってもいい。
  • ―多文化共生教育のための試み―
    神部 秀一, 石田 成人, 所澤 潤
    東京未来大学研究紀要
    2019年 13 巻 117-128
    発行日: 2019/03/29
    公開日: 2019/05/30
    ジャーナル フリー

     本稿は、2017年9月7日・8日に台北日本人学校中学部の7学級で実施したNIE授業の内容とその成果を報告するものである。本実践の目的は、海外日本人学校の生徒に、異文化環境の中にいることを実感させる授業をNIEによって実現する可能性を探ることにあった。授業は、社会科で、テーマは「成人年齢を考える-成人年齢は18歳か20歳か-」とした。生徒に、日本と台湾の成人年齢について考えさせ、それを台湾という地と結びつけて把握できるようにすることを意図した。本NIE授業は、対等の立場にある二人の教師がティーム・ティーチング(TT)で行うスタイルをとり、石田と神部が授業を担当し、所澤がスーパーバイザーとなった。石田が成人年齢20歳支持、神部が18歳支持の立場でそれぞれの利害得失についてディベートを展開し、生徒に考えを促し、最後にゲストティーチャーとして現地の大学教員を迎え、台湾の成人事情について説明を行った。授業後のアンケート調査では、生徒の多文化共生意識の向上、社会参加意識の向上をみることができた。

  • 日本細菌学雑誌
    2021年 76 巻 1 号 5-13
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/02/23
    ジャーナル フリー
  • 中村春二の場合
    宇野 美恵子
    教育哲学研究
    1983年 1983 巻 48 号 15-30
    発行日: 1983/11/05
    公開日: 2009/09/04
    ジャーナル フリー
    Haruji Nakamura (1877-1924) is a Japanese educator who searched for possibilities of modern education for common people related to the traditional culture and especially to the consciousness of ultimate norms of the Japanese people.
    Influenced by modern educational thought introduced during the early Meijiperiod, especially Christian practical ethics and humanism such as 'self-help' of Samuel Smiles (1812-1904) or the social movement of fabianism, he tried in his experimental middle school to change the traditional view of man of common people in those days into the view of more responsible and self-disciplined man in modern society.
    In this attempt, he made use of the ethical teaching of 'Ten Ox-herding' or meditation and ascetic practices of Zen Buddhism and also turned his attention to the methods of teaching used in the 'Terakoya' which treated each child carefully and individually in small groups.
    Through such experiments, he sought to awaken people to a clear self-cosciousness of taking responsibility in their ethical relations.
    In spite of respect for and practical use of the tradition, his educational thought aimed at some kind of enlightenment and liberalism respecting responsible individuals and his eyes were directed toward realizing human freedom and social equality in the structural reform of the modernization of Japan.
  • 中嶌 洋
    社会福祉学
    2011年 52 巻 3 号 28-39
    発行日: 2011/11/30
    公開日: 2018/07/20
    ジャーナル フリー
    本稿は,戦後日本へのホームヘルプ事業の導入経緯を探究する研究の一環として,原崎秀司が視察研修中に記した1953(昭和28)年9月19日〜1954(昭和29)年5月1日までの日誌および帰国前後に記された論稿・回顧録の記述から,原崎の問題関心の所在と視察行程を検証するものである.長野県社会部厚生課長職にあった原崎は,地域のなかでの在宅福祉という考え方が普及していなかった1950年代前半当時,国際連合社会福祉奨学生として欧米社会福祉視察研修に専念した.スイスやイギリスでの視察研修を通じて,現地人の苦悩しつつ創造する真の実学精神に感銘を受け,日本の実状を憂慮した.1956(昭和31)年から始動した家庭養護婦派遣事業はまさに日本人の意識改革を中心に新たな生活改善策を思案した末のことであった.日誌の記述をていねいに紐解くと,「創造的進化の社会」の実現を志向する原崎の実験的試みであった同事業の背景には,視察研修時にふれた諸外国の進んだ福祉実践のみならず,人々の日常生活上の創意工夫や合理性がみられた.
  • 川原 栄峰
    哲学
    1968年 1968 巻 18 号 57-86
    発行日: 1968/03/31
    公開日: 2010/01/20
    ジャーナル フリー
    Heute fragt man oft, ob Heidegger inzwischen die Philosophie verlassen habe und jetzt Dichter geworden sei. Seit den dreißiger Jahren schreibt Heidegger etwas anders als früher in “Sein und Zeit”. Sein ungewohnlicher Sprachgebrauch wirkt manchmal mehr dichterisch als philosophisch. Oft klingt sein Sagen sogar geheimnisvoll. Ist Heidegger wirklich Dichter geworden?
    Von Heidegger ist unter anderem ein Buch “Was ist das-die Philosophie?” herausgegeben worden. Dies besagt schon, daß die Philosophie bei ihm selbst frag-würdig geworden ist. Diese Frage fragt er aber keineswegs so harmlos, wie es in der Metaphysik seit Sokrates ublich gewesen ist. Er fragt diese Frage nämlich so, daß er sie fragend selbst “philosophiert”. Er fragt also dabei nicht “über” die Philosophie, sondern “in” die Philosophie.
    In die Philosophie philosophierend zu fragen ist man aber, nach Heidegger, nur dann imstande, wenn man die Frage als eine geschichtliche Frage fragt. Die Philosophie ist ja von griechischer Herkunft.s. Es gab z. B. in der ostasiatischen Welt Keine Philosohie, obwohl man darum doch nicht sagen darf, daß die ostasiatischen Menschen in alten Zeiten nicht gedacht hätten. Nicht nur die Ostasiaten, sondern auch die Griechen dachten in ihrer großen Zeit ohme Titel. Nicht einmal “Philosophie” nannten sie das Denken. Die Philosophie entstand erst zur Zeit Platons in Griechenland und zwar aus dem ursprünglicheren und größeren Denken des Seins. Das Denken selbst aber entsteht nicht. Es ist, insofern Sein west.
    Deser Schritt vom urspünglicheren Denken zur Philosophie ist aber für die abendländisch-europäsche Welt so entscheidend, daß die Philosophie die ganze abendländish-europäische Geschichte wesentlich geprägt hat. Die Wissenschaften gäbe es memals, wenn ihnen nicht die Philosophie vorher und vorausgegangen wäre. Wenn es aber die Wissenschaften nicht gäbe, würde die planetarische Herrschaft der Technik von heute schlechthin unmoglich sein. Man muß also mit besonderem Akzent sagen, daß die Philosophie duch und durch die abendländisch-europäische Überlieferung ist und die Frage “in” die Philosophie muß nicht nur als “ein”, sondern als die gaschichtliche Frage für die Europäer gefragt weden.
    Unter den sogenannten europäischen “Philosophen” gilt Heidegger als der erste und einzige, der sich selbst wesentlich, also nicht im metaphysisch-historischen, sondern im geschichtlichen Sinne, als Europäer zum Unterschied vom Asiaten weiß. Für ihn kann es gar nicht selbstverständlich Sein, daß die Philosophie zur Natur des Menschen gehöre. Die Philosophie ist, sozusagen, eine Denkweise, und zwar nur eine europäsche.
    Nun schreitet Heidegger jenén von Platon vollzogenen Schritt zur Philosophie wieder zurüugliche Denken des Seins, Diesen Schritt zurück nennt er auch die Kehre, oder andernfalls auch die Destruktion, deren Wortsinn schon in “Sein und Zeit” klar umshrieben ist. Von der Philosophie zurück zu dem ursprüglichen Denken zurückschreitend klopft er die philosophisch-metaphysischen Leitfragen, wie z. B. den satz vom Grund, don Satz der Identität u. w. an und hört, ob sie jenen bekannten hohlen Ton geben oder darin die weit ursprünglicheren Grundfragen verborgen und ungedacht bewahrt sind.
    In die Philosophie philosophierend zu fragen bedeutet also für Heidegger : den Schritt von dem Denken zur Philosophie wieder zurückzuschreiten, in und nach den Leitfragen der Metaphysik bzw. der Philosophie die Grundfragen des Denkens zu suchen und auf diese Weise ständig unterwegs zum Sein zu sein.
  • 安藤 光代
    三菱経済研究所 経済研究書
    2006年 2006 巻 72 号 1-162
    発行日: 2006/02/15
    公開日: 2023/08/01
    研究報告書・技術報告書 フリー
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