1.はじめに 1980年代の空間論的転回・文化論的転回以降、公共空間を社会的に生産された空間と見る視点が現れた。ロウ(2000)は、この視点から都市の広場を分析した。広場は、都市生活においてさまざまな相互作用が行われる、社会的な意義に満ちた空間である。それは、個人の活動と社会的・政治的な力によって、絶えず意味を変化させている。ゆえに、広場はその使用や意味において、コンフリクトをはらむ。ロウは、空間の社会的な生産という視点を用いることで、このコンフリクトを明らかにした。とくに、現代に至るまでの広場の意味を明らかにするため、広場に歴史的に重層化した意味をみる重要性を強調した。
2.分析対象 本発表は、京都市の
京都駅
前広場が社会的に生産されたプロセスを分析する。京都市は、近代以降、伝統と革新のどちらが市にふさわしいか、というコンフリクトを孕みつつ、形作られた都市である。現代まで続くこのコンフリクトは、都市において公共性の高い、
京都駅
前広場の歴史的な変化に見てとれる。
京都駅
前広場は、1913年に駅舎が南に移築されたさいに造成された。大正年間、広場に目立った施設はなかった。1928年の昭和御大典を機に、京都市が観光都市を目指すようになると、広場には観光案内所やホテルができた。それは「観光都市の表玄関」として語られるようになった。以降、入洛者のため、広場には何がふさわしいかという言説が現れ、広場に意味が重層化する。
3.分析 昭和の御大典による観光都市化を契機に、広場では入洛者となる①観光客②皇室関係者の視線が意識されるようになった。本発表では、以上の2つの視線のなかで、京都市にふさわしい、とされる公共の広場が生産されていった点を明らかにする。このプロセスの端緒となったのが、広場の舗装の必要性が主張されるようになったことである。当時砂利敷きであった広場は、「都市美観」と「交通利便」上、入洛客となる天皇や観光客に不快を生じさせていた。この提案をきっかけに、広場をよりふさわしい状態にする、という意味付けがなされるようになった。 はじめに、1930年の市行政への観光課設置によって、観光客の視線が意識された。この年以降、京都商工会議所が中心となり、観光客への接遇にふさわしい広場が求められていく。それは①ハード面=広場への消費施設の整備②ソフト面=観光客の接遇の改善という2つの取り組みであった。そして、天皇の視線を意識させたのが、5年ぶりとなる昭和8年の天皇行幸であった。美観がより広場にふさわしいものとして強調されるようになり、広場に小公園を設置する計画が検討された。また行幸を前にして警察による広場の秩序維持が強まり、「不良客引」の取締が行われた。一連の取り組みは、美観という言葉のもと、物質的・倫理的に優れたものとして表象された。広場には、京都市の威光とでもいうべき美観が投影された。以上のプロセスを経て、観光客の視線に対応する施設整備と、天皇の視線に適う美観とが、京都市の表玄関にふさわしいものとして、広場に意味づけられた。
4.おわりに 以上の分析から、戦前の
京都駅
前広場には、京都市を誇る美観と、消費空間という意味付けがなされていたことが明らかとなった。これらはそれぞれ、京都の威光を示すため、そして、京都の紹介のためという理由から、
京都駅
前広場にふさわしいものとなり、広場への施設整備へとつながった。 1964年、
京都駅
前広場の景観をめぐり、京都タワー論争が起こった。この論争において、京都市民が誇れる美しさと、経済活性化という2つの公共的なものが、広場から読み取られ、両者の意見は対立した。本発表で明らかにした、ふさわしさをめぐる
京都駅
前広場の生産は、この論争の前史だといえるだろう。
【文献】Low, S. 2000.
On the Plaza: The Politics of Public Space and Culture. Austin:University of Texas Press.
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