日本が近代に入ってから初めての敗北を記してから50年が経つが, 戦後の社会学において非制度的な社会学は存在したのか?パラダイムを有効たらしめる専門家集団のマージナルな外辺にいわば野生の社会学とでも言える知と実践の試みがあったといえよう。集団的なその端緒は1960年代から1970年代にかけての学園闘争に存在した。それまでの学生運動が自己措定を自明なものとしたのに対して, この運動はこの措定をかっこの中に入れることから出発した。アイデンティティポリティックスである。自己の中に批判の対象である様々な制度・人格を発見した「野生の社会学者」は自己を根底から支える認識の基礎である知覚のレベルまでその批判の矛先を向けた。ここから対抗文化への架橋が生まれた。ドラッグ, オリエンタリズムなどはこれらの構成要素であった。しかし, このような動きの原理的な再考はリベラルな社会学者というよりはオーソドックスな社会学者からなされた。青井和夫は既存の社会学しかも1970年代80年代の先端的な社会学の潮流を検討してそのいずれもが認識上の限界があり, 新たな意味づけの基礎を自らの身体の実践を通じた禅に求めた。この試みは画期的なものであった。意味の生じる根源に遡って絶えざる意味の湧出を探った青井の試みは特筆に値する。従来の東西の折衷的な融和・接合でないこうした試みは西欧の母斑をいまだ色濃く有している社会学のみならず, 社会学を基礎づけている哲学そのものの限界を探る貴重な探求であった。青井のこのような実践的な探求を継承する営為はこれまで余り見られなかった。本論考では青井の禅を基礎とする探求を多としながらも禅そのものに潜む限界を氣功の立場から乗り越えようとした。青井の試みは認識論的な領域に傾いており, 西欧的な世界存在を依然として承認しているように思われる。世界存在の層状的な構造がもし考えられるならば, 意味の発生する磁場そのものが再考されなければならない。氣功の実践的な探求を通じて西欧的な世界存在そのものの外あるいは底にある元氣の世界の存在を感得することが出来た。この世界は従来, まか不思議な世界として非合理的な・非理性的な世界として退けられてきたものである。新しい社会学はこの世界を再考することなく構築不可能である。
抄録全体を表示