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クエリ検索: "平城京"
1,252件中 1-20の結果を表示しています
  • 奈良に於ける都市計画と平城京研究について
    亀井 伸雄, 山岸 常一
    都市計画論文集
    1976年 11 巻 199-204
    発行日: 1976/10/25
    公開日: 2020/10/01
    ジャーナル オープンアクセス
  • *河角 龍典
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2003年 2003 巻 201
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本研究の目的は、
    平城京
    の地形環境を復原し、その復原成果と
    平城京
    内部の土地利用との関係から、
    平城京
    の土地利用規定要因を解明することにある。本研究では、ジオアーケオロジー(geoarchaeology)の方法を適用し、考古学や歴史学の研究成果に対応する精度の地形環境復原を行い、
    平城京
    の土地利用との対比を行った。
    平城京
    を流下する佐保川流域の地形環境は、奈良時代以降も著しく変化しており、奈良時代の地形環境は現在と異なる地形環境であることが判明した。佐保川流域平野における歴史時代の地形環境変化は、奈良時代以降4つの地形環境ステージに区分できた。表層地質調査からみた奈良時代の
    平城京
    は、洪水氾濫の少ない地形環境であった。また、史料からみても奈良時代の水害は、728(神亀5)年の1回にとどまっている。
    平城京
    の地形環境復原図と土地利用復原図とを対比した結果、
    平城京
    内部の土地利用は、地形環境と密接に関係することが明らかになった。
    平城京
    内部の土地利用は、地形の配列に対して決して無秩序ではなく、土地条件を考慮した上で配置されていたと推測できる。
    平城京
    の土地利用規定要因の中には、社会環境に加えて、地形環境も含まれていたのである。
    平城京
    における市街地や貴族の邸宅は、地下水位が高く、かつ洪水の危険性もある、現在の土地条件評価基準では宅地として不適当な地形に立地する傾向が認められた。これは水を得やすい土地を選択した結果であり、井戸による地下水の取水が容易である土地を選択した結果であると考えられる。こうした土地利用パターンの背景には、集水域面積が狭小で、洪水に対しての安全性は高いが、その一方で水資源に乏しいという
    平城京
    固有の立地特性がある。こうしたなかで、
    平城京
    内部の土地利用は洪水発生区域には左右されず、生活用水の取水条件あるいは地盤条件が、土地利用を規定する要因となったと考えられる。
  • 松浦 茂樹
    水利科学
    2017年 61 巻 5 号 53-70
    発行日: 2017/12/01
    公開日: 2019/02/15
    ジャーナル フリー

    東大寺大仏を建立したことで有名な聖武天皇は,また都を

    平城京
    から恭仁京,難波京と遷したのち,再び
    平城京
    に還ってきた。この間,天平12(740)年12月からわずか4年半である。その意図について,国土経営の観点から仮説を論じたものである。 木津川沿いの恭仁京への遷都は,
    平城京
    の物資輸送に大きな役割を果たしていた大和川舟運に支障が生じたからと考える。天平6(734)年4月,畿内は大地震に見舞われたが,その時に地すべり地帯である大和川亀ノ瀬峡谷部で舟運に影響を与える変動が生じたとの推測からである。舟運のための淀川・木津川整備は,恭仁京遷都に合わせて進められていったのだろう。 難波京遷都は,海外との文化交流あるいは文物の移入のための表玄関の整備と考える。
    平城京
    還都は,天平17(745)年4月に美濃国を震源とした大規模な内陸直下型群発性に襲われたことが最大の理由と考える。当時,恭仁京に都の人々は住んでいたが,地震に襲われた直後,先を争って
    平城京
    に帰っていった。

  • 加藤 百一
    日本醸造協会誌
    2007年 102 巻 5 号 352-363
    発行日: 2007/05/15
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
  • 加藤 百一
    日本醸造協会誌
    2005年 100 巻 8 号 564-578
    発行日: 2005/08/15
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
  • 浅田 真紀子
    人文地理
    1982年 34 巻 3 号 252-260
    発行日: 1982/06/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
  • 田辺 征夫
    土木学会論文集
    1986年 1986 巻 373 号 41-44
    発行日: 1986/09/20
    公開日: 2010/08/24
    ジャーナル フリー
  • 加藤 百一
    日本醸造協会誌
    2005年 100 巻 7 号 497-510
    発行日: 2005/07/15
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
  • ―― 平城京の天皇・僧と民の文学 ――
    飯泉 健司
    日本文学
    2013年 62 巻 5 号 20-28
    発行日: 2013年
    公開日: 2018/05/18
    ジャーナル フリー

    大仏は「大山を削る(自然破壊)」施政観のもと建造される。自然=神の破壊は現人神故に可能な行為だったが、

    平城京
    の天皇たちは自然神に脅威を抱き、結果仏の力を頼り、理想社会を築こうとする。だが仏を広めるべき僧や檀家は領地争い等で私服を肥やす。一方
    平城京
    民は、天皇の理想を嘲笑うかのように僧を揶揄する社会批判歌を詠む。後世の落首に通じる批判を生成させる新たな歌の場の出現である。
    平城京
    での破壊行為は、政治とは別次元で、民衆の新たな文学を創出させた。

  • 形態論的相異の因果性
    本中 真
    造園雑誌
    1982年 46 巻 5 号 25-30
    発行日: 1982/03/31
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
    庭園における眺望行為を規定するカテゴリーとして, 建物, 庭園, 自然の3つを挙け, 標記の3庭園における各カテゴリーの空間的側面からみた形態的, 質的独立性について分析する。そして, 3カテゴリーの関係性の相異が, 前報において明らかにした眺望行為の形式と眺望景観のあつかわれ方の相異として形態化されることに論及する。
  • 橋本 巧
    社会科教育論叢
    2007年 46 巻 50-55
    発行日: 2007/03/15
    公開日: 2017/07/01
    ジャーナル フリー
  • 井村 誠孝, 浦西 友樹, 池田 聖, 眞鍋 佳嗣, 大城 理, 千原 國宏
    芸術科学会論文誌
    2011年 10 巻 4 号 215-225
    発行日: 2011/12/15
    公開日: 2023/03/31
    ジャーナル フリー
    平城京
    ウォークスルーは,「古の奈良の都」
    平城京
    の街並みをコンピュータ・グラフィクスで再現し,その中をバーチャルに散策することを可能とするシステムである.提案システムは,様々な環境での体験展示の実施を考慮し,画像提示および入力インタフェイスの両処理において柔軟な機器構成を可能とする分散型の構成を取っている.都市の規模をユーザが感じられるようにするために,各辺が4km 強の
    平城京
    全域をルールベースの手続き型モデリングによって再現する.映像は没入型ディスプレイにより提示され,ユーザは足踏みなどの動作を行うことで,視点の移動と回転を制御する.ユーザの両踵を単眼カメラで後方から計測し,画像処理により得られる踵の上下運動と接地位置の時系列データを解析することにより,足踏みによる直感的な視点移動を実現する.
  • 高瀬 要一
    日本庭園学会誌
    2003年 2003 巻 11 号 27-43
    発行日: 2003/12/28
    公開日: 2011/05/20
    ジャーナル フリー
  • 山近 久美子
    人文地理
    2010年 62 巻 3 号 231-250
    発行日: 2010年
    公開日: 2018/01/19
    ジャーナル フリー

    This study examines the ideas of ancient people about places for placenta rituals in Heijo-kyo, the 8th-century capital of Japan. The placenta is the material that comes out of a woman’s body after she gives birth to a baby, which is necessary to nourish and protect the baby in utero. Traditionally, the treatment of the placenta has been associated with the health and future of the baby, so there are many forms of related ceremonies around the world.

    In Japan, placenta rituals took different forms in different periods. In many modern instances, the placenta was wrapped with paper or cloth and put in a pot, then buried underground in an auspicious direction. The pot contained, if the baby was a boy, a brush or an ink stick with his placenta. If the baby was a girl, there was a thread or a needle with her placenta.

    Archaeologists have cited placenta rituals in folklore for their interpretations of pottery-buried remains. Many archaeologists have believed pottery was ritually buried around the front door of houses since in folklore, the placenta was frequently put in a pot and buried under the entrance of a house. But placentas were actually buried in various places apart from the front door; for example, in the shade, on mountains, by the roadside, in estates, under the floor, and in lavatories.

    The oldest attested pottery-buried remains are found at the capital, Heijo-kyo. It is difficult to determine the purposes of burying earthenware during the Nara period. Yet two major purposes are for ground-purification ceremonies and for placenta rituals. So this paper first attempted to classify them by the kinds and the contents of the ritually buried pottery. The typical pottery used for placenta rituals is Sue ware jars called “Sueki tsubo A”, resembling a medicine pot that was associated with Yakushi or the Buddha of healing. The typical contents of the pottery are ink sticks, brushes and pieces of cloth.

    The sites where pottery-buried remains were unearthed are large in size and near the Heijo Palace. This fact suggests that placenta ceremonies were carried out by government officials of the Heijo-kyo capital. And the sites of rituals were not always at entrances, but in many cases around the houses. According to ancient Chinese medical books, burying the placenta in the shade was taboo. But in modern folklore of Japan, the shade was often chosen as the place for burying the placenta, and many placentas were buried under the floors of houses.

    In this respect, the sites where pottery-buried remains were unearthed in Heijo-kyo differ from those of placenta rituals as described in modern folklore. We came to the conclusion that though in Heijo-kyo they had their own idea about the placenta burial site, the rituals were typically performed by government officials on the basis of ancient Chinese medical books.

  • 古典的気候学と文献によるスペキュレーション
    *福岡 義隆, 丸本 美紀
    日本地理学会発表要旨集
    2011年 2011s 巻 P1505
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1. いま何故、
    平城京
    ヒートアイランドか  昨今の温暖化(平成温暖期とする)に類似の平安温暖期(奈良時代から平安時代にかけて)における都市の熱環境はどうであったか。それは
    平城京
    や平安京の繁栄の現われなのか。文献的な検証により、古環境とくに気候環境への適応工夫を見直してみて先人の知恵を学ぶ手がかりにしたい。 2. 研究方法 2-1 古典的な気候学研究方法からの類推 (1)SchmidtによるWienにおける都市気温の成因分析.1917,(2)福井英一郎による土地利用比率からの都市気温の推定回帰式とAustasch概念導入.1956,(3)高橋百之による家屋密度Dと気温Tの関係式,T=αD+βで概略描写.1959,(4)河村武による都市温度成因分析,熱的指数1/(cρκ1/2)で微差補正.1964,(5)田宮兵衛による団地の気温分布参考.1968,(6)オーク、福岡、朴らによる人口数Pとヒートアイランド強度HII=AlogP+Bの回帰式で京内外の温度差推定(1987・1992,など)。 2-2 
    平城京
    内の居住環境と土地利用の推定  馬場基著(2010)『
    平城京
    に暮らす』(吉川弘文館)~主に「大日本古文書」「平城宮木簡」「平常京木簡」「平城宮発掘調査出土木簡概報」などに基づく著書、宮本長二郎著(2010)『
    平城京
    ―古代の都市計画と建築』(草思社)~各種古文書のほか奈良国立文化財研究所や歴史民俗博物館などの模型などに基づき穂積和夫によるイラストでの復元図、奈良文化財研究所編(2010)『平常京―奈良の都のまつりごととくらし』など 3. 冬季夜間のヒートアイランド推定結果  上記の手法、先行研究方法からの概略図把握および各種文献による微差補正などで下図を得る。  根拠とした数値など;_丸1_
    平城京
    の人口は10万~20万人と推定されているので、オーク・福岡らの人口とヒートアイランド強度(HII)の相関図から、おおよそHIIは1.5~2℃とした。_丸2_人が集まりやすい区域、例えば市場(東市・西市)とか頻繁に宴会が催された朝堂院、大学寮(式部省近く)、広場(行基の布教活動支援の大衆集合)等は周辺より高温とした。_丸3_大極殿とか長屋王邸などの屋根のように著熱効果のある瓦が大量に使われている建物群区域もやや高温とみなした(平常京全体で500万枚の瓦が使われた)。_丸4_朱雀大路とか二条通りなどの街路樹(槐、エンジュ)や佐保川とか秋篠川、大極殿北隣の溜池あるいは苑内池付近などの蒸発散面区域でやや低温であったと類推される。
  • 加藤 百一
    日本醸造協会誌
    2007年 102 巻 2 号 121-135
    発行日: 2007/02/15
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
  • 栄原 永遠男
    大阪歴史博物館研究紀要
    2019年 17 巻 25-40
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/10/25
    研究報告書・技術報告書 フリー
    日本古代に「複都制」という「都」もしくは「京」を複数置くという制度があったとすることは、1967年に提起されて以来、ほとんど疑われることなく、自明の前提とされてきたが、その理解をめぐって議論は混乱してきた。「宮」は複数併存するもので、「京」は「宮」に外延部がついたものであるから、これも併存する。しかし「京」が併存すると、天皇の所在地を明示するために、天皇の居る「京」を「都」と称し、強調して「皇都」とも呼んだ。この観点で「京」「都」の変遷を検討すると、天武天皇の晩年を除いて「都」が併存することはないし、それを示す史料も存在しないことが明らかとなる。「複都制」は、天武朝に一時期実現が目指されただけで、それも観念的なものにとどまり、その後引き継がれることはなかった。
  • 佐藤 信
    史学雑誌
    1992年 101 巻 10 号 1828-1829
    発行日: 1992/10/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
  • 本中 真
    造園雑誌
    1981年 44 巻 4 号 203-219
    発行日: 1981/03/31
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
    これまでの幾多の発掘調査結果をもとに,
    平城京
    左京三条二坊六坪内の遺構の復原を行ない, 同時に周辺の地物, 自然景観等の標高を算出し, 両者の相互関係から, 「
    平城京
    左京三条二坊六坪宮跡庭園」からの東方の眺望行為がどの程度可能であったかを追求した。
    また, この眺望行為を, 後世の借景と同じカテゴリーに含めうるかどうかについても言及した。
  • 本中 真
    造園雑誌
    1991年 55 巻 5 号 109-114
    発行日: 1991/03/31
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
    小論は, 発掘調査によって判明した平城宮東院庭園の意匠と工法の検討を行い, 他の遺跡庭園を例証しつつ古代庭園の一連の系譜の中に位置づけようと試みるものである。
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