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クエリ検索: "律" 仏教
1,527件中 1-20の結果を表示しています
  • ミャンマーを事例として
    藏本 龍介
    宗教研究
    2016年 90 巻 2 号 29-54
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル フリー

    上座

    仏教
    の出家者は、律と呼ばれるルールによって、「食」の獲得・所有・消費方法について、種々の制限を課されている。そしてこうした律を守る出家生活こそが、上座
    仏教
    の理想を実現するための最適な手段であるとされる。しかしだからといって、出家者は霞を食べて生きていけるわけではない。ここに上座
    仏教
    の出家生活が抱える、「食」をめぐる根深いジレンマがある。それでは現実の出家者たちは、「食」をめぐる問題にどのように対応しているか。そしてそれが出家者の宗教実践をどのように形づくっているか。本論文ではこの問題について、現代ミャンマーを事例として検討する。こうした作業を通じて、宗教/世俗を二項対立的に区別する発想では捉えられないような出家者の
    仏教
    実践の一端について、具体的にはなぜ出家し、どのようなライフコースを辿るのか、そして出家者の生活の基盤である僧院組織の構造がどのように規定されているのかといった諸点を明らかにする。

  • 明治後期における新仏教徒と釈雲照の交錯をめぐって
    亀山 光明
    宗教研究
    2019年 93 巻 1 号 25-49
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/09/30
    ジャーナル フリー

    本稿が対象とする「正法運動」と「新

    仏教
    運動」は明治期を代表する
    仏教
    者の二大運動である。前者を指導した釈雲照(一八二七―一九〇九)は、江戸期の僧侶として前半生を過ごし、維新期における廃仏毀釈の嵐に際会すると、「戒律」の復興こそが
    仏教
    の復興につながると確信し、幅広い活動を展開した。他方で後者の新
    仏教
    運動は、保守的な教界に反発を抱く青年
    仏教
    徒たちによるユースカルチャーとして成立した。彼ら新
    仏教
    徒たちは雲照の思想を乗り越えるべき「旧
    仏教
    」と位置付けることで、その対立は先鋭化する。

    中世から近世にかけては、多くの律僧たちが戒律復興を試みたように、「戒律」は

    仏教
    刷新の中心的イデオロギーの一つであったことは注目に値する。そのため近代
    仏教
    において、「戒律」の位相を再検討することは、在家と出家者の区別が曖昧になるとされる日本
    仏教
    の近代への新たな理解をもたらすと考えられる。本稿はかかる問題意識の下に、明治期の二つの
    仏教
    運動の衝突の考察を試みるものである。

  • ー密教「聖教」の視点からー
    永村 眞
    智山学報
    2017年 66 巻 _1-_30
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル オープンアクセス
        本論ではまず「鎌倉
    仏教
    」とは何かを考えておく必要がある。この「鎌倉
    仏教
    」という概念が、如何に定義されてきたのかを確認するため、「鎌倉
    仏教
    」を前面に掲げた先行研究をたどるならば、まず赤松俊秀氏の『鎌倉
    仏教
    の研究』(1957年)・『続鎌倉
    仏教
    の研究』(1966年)があげられる。両著は、「親鸞をめぐる諸問題」・「一遍について」・「慈円と未来記」、「親鸞をめぐる諸問題」・「源空について」・「覚超と覚鑁」・「愚管抄について」・「神像と縁起」等の論文をおさめ、主に浄土門の研究が「鎌倉
    仏教
    」の柱とされ、遁世者を通して顕教を見るという研究視角をとっている。次いで佐藤弘夫氏の『鎌倉
    仏教
    』(1994年)では、「法然の旅」・「聖とその時代」・「異端への道」・「仏法と王法」・「理想と現実のはさまで」・「襤褸の旗」・「熱原燃ゆ」・「文化史上の鎌倉
    仏教
    」等の論文において、顕・密を意識しながらも、浄土・法華に傾斜した関心とその展開を図っている。さらに
    仏教
    学・思想史という立場から書かれた末木文美士氏『鎌倉
    仏教
    形成論ー思想史の立場からー』(1998年)には、教理史へのこだわりのもとで、「鎌倉
    仏教
    への視座」・「顕と密」・「法然とその周辺」・「明恵とその周辺」「本覚思想の形成」・「
    仏教
    の民衆化をめぐって」等、黒田俊雄氏が提唱した「顕密
    仏教
    」の概念に基づく一連の研究への批判と対案の模索がなされている。
     これら三氏の先行研究のみで結論を導くことは憚られるものの、いずれも「鎌倉
    仏教
    」という要語について明確な規定はなされておらず、「鎌倉」時代に展開した「
    仏教
    」という枠を越えるものではない。また時系列で「鎌倉
    仏教
    」と連結する「平安
    仏教
    」と関連付ける試みについても、共通理解が得られたとは言えない。また先行研究に共通するものは、祖師・碩学の著述によって「鎌倉
    仏教
    」の性格付けが試みられており、その検討作業のなかで、厚みのある
    仏教
    受容の検討、つまり僧侶集団による受容の解明は必ずしも重視されてこなかった。
     「鎌倉
    仏教
    」を規定する上で、時系列上の存在意義、教学的な特質、社会的な受容のあり方など、その特異性を見いだすための指標は想定されるものの、それらを明快に語り尽くした研究は見いだし難く、また容易に解明できる課題とも思えない。
     この「鎌倉
    仏教
    」を内包する中世
    仏教
    のあり方を検討する上で注目すべき成果は、黒田俊雄氏により提唱された「顕密
    仏教
    」という概念である。日本
    仏教
    史において通説として根付いていた「鎌倉新
    仏教
    」と「鎌倉旧
    仏教
    」の歴史学的な評価を大きく変えたのが、同氏の『日本中世の国家と宗教』・『王法と仏法』・『寺社勢力』等の一連の著作であった。黒田氏は、「密教」を基調に顕教が教学的に統合されるという認識を踏まえ、宗派史を越えた
    仏教
    史の構想のもとに、実質的に聖俗両界で正統の位置をしめる「顕密
    仏教
    」(「旧
    仏教
    」)と、異端派(「新
    仏教
    」)との対照を顕示した。すなわち中世に受容された
    仏教
    の正統として「旧
    仏教
    」を位置づけ、政治史(国政史)と密着した
    仏教
    のあり方こそが「顕密
    仏教
    」の正統たる所以とする。ここに顕在化する「正統」と「異端」の両者が分岐する時代のなかに「鎌倉
    仏教
    」の特質を見いだしたとも言える。しかし「正統」と「異端」という二極化した理解に対して、「異端」とされた浄土宗・真宗研究の側からの反論に加えて、両極化では説明しきれない多様性が、伝来した膨大な寺院史料の中から明らかになっている。
     そこで中世
    仏教
    、とりわけ「鎌倉
    仏教
    」を、黒田氏の提示した密教を基盤におくとする
    仏教
    継承の母体としての寺院社会という側面から見るとともに、その検討素材として寺院史料の中核をなす教学活動の痕跡とも言える「聖教」に注目したい。諸寺院に伝来する多彩な「聖教」から、二極化では説明しきれない幅広い仏法受容の有様が実感される。すなわち「寺」・「宗」派という枠を越えた「聖教」の実相から、中世における仏法受容の多様性を検討する可能性を見いだすことにしたい(1)。
     ここで「聖教」の語義であるが、本来ならば釈尊の教えを指すが、併せて諸宗祖師の教説へと拡がり、さらに「諸宗顕密経論抄物等」(「門葉記」巻74)という表現に見られる、寺僧による修学・伝授・教化に関わる幅広い「抄物」等の教学史料という広い意味で用いられるようになり、しかもその語義は時代のなかで併存していた。そこで近年の研究・調査においても使われる、「寺僧の修学・伝授・教化等のなかで生まれた多様な教学史料」という広い意味で「聖教」を用いることにする。
     本論では、諸寺に伝来する「聖教」を素材として、層をなす僧侶集団が修学活動のなかで如何に仏法を受容し相承したのか、特に真言「密教」を中核にすえ、一側面からではあるが時代に生まれた特徴的な現象に注目して「鎌倉
    仏教
    」の特質を検討したい。
  • 藤本 晃
    印度學
    佛教
    學研究

    2023年 72 巻 1 号 436-429
    発行日: 2023/12/20
    公開日: 2024/09/06
    ジャーナル フリー

    In 2022, Fujimoto pointed out issues with Sasaki’s (2000) interpretations of the definition of saṅghabheda (dissension and break among the saṅgha; schism). In response, Sasaki (2022) replied to these criticisms, merely reiterating his two original arguments.

    Argument 1: There are two distinct definitions for saṅghabheda; cakrabheda (dissension and break by/related to breaking Śākyamuni Buddha’s teachings) and karmabheda (dissention and break related to disrupting the saṅgha’s activities).

    Argument 2: The definition of cakrabheda was altered to that of karmabheda during the reign of Emperor Aśoka.

    On Argument 1: Sasaki confuses definition and incidents. The Vinaya describes two distinct incidents that resulted in saṅghabheda. One is associated with Devadatta and is referred to as cakrabheda, while the other, known as karmabheda, involves the bhikkhus in Kosambi.

    It is essential to note that neither cakrabheda nor karmabheda can be considered the precise definition of saṅghabheda; instead, they represent particular incidents.

    On Argument 2: It may be reasonable to argue that definitions can evolve over time. However, it is not the case that two distinct incidents (cakrabheda and karmabheda) transitioned from one into the other as time passed.

  • 辛嶋 静志
    印度學
    佛教
    學研究

    1995年 44 巻 1 号 412-408
    発行日: 1995/12/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 山極 伸之
    印度學
    佛教
    學研究

    1995年 44 巻 1 号 417-413
    発行日: 1995/12/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 米澤 嘉康
    印度學
    佛教
    學研究

    2017年 65 巻 3 号 1171-1178
    発行日: 2017/03/25
    公開日: 2018/03/24
    ジャーナル フリー

    『根本説一切有部律』は,「

    (経)分別」(Vinaya-vibhaṅga),「律事」(Vinaya-vastu),「律雑事」(Vinaya-kṣudraka),「ウッタラグランタ」(Uttaragrantha)という4部構成であることが知られている.本稿は,徳光(Guṇaprabha)著とされる『律経』(Vinayasūtra)に対する『律経自註』(Vinayasūtravṛtty-abhidhāna-svavyā­khyāna)において,『根本説一切有部律』の構成について言及している箇所,すなわち,第1章「出家事」第98経の註釈を取り上げ,「律事」ならびに「ウッタラグランタ」の構成についての記述を紹介するものである.なお,当該箇所は『律経』「出家事」研究会によってテキストならびに和訳が出版されているが,近年の研究成果における指摘にしたがい,本稿では一部訂正を施している.

  • —唐代口語語彙「顔面」をめぐる講説の場—
    藏中 しのぶ
    日本文学
    2011年 60 巻 5 号 31-39
    発行日: 2011/05/10
    公開日: 2017/05/19
    ジャーナル フリー

    唐代口語語彙は、律令・

    仏教
    ・文学という学問の講説の場で、最新の唐代の学問を継承し、中国語話者をふくむ講師によって口頭で講じられ、講義録として私記類に記録され、さらにそれらが類聚編纂されて古辞書・古注釈類をはじめとする後世の文献に定着した。

    講説の場として、律令学の大安寺における「僧尼令」講説、

    仏教
    学の唐僧思託による漢語を用いた戒律経典の講説、文学の『遊仙窟』講説という三分野の学問の場をとりあげ、その担い手が律令官人・在俗
    仏教
    徒・文人という性格を兼ね備え、彼らが学問としての講説の場で唐代口語という異言語を共有していた状況をあきらかにした。

    講説の場では、養老年間以前に成立した会話辞書・口語辞書『楊氏漢語抄』『弁色立成』等が工具書として共通して使用されていた可能性を指摘し、律令学・

    仏教
    学・文学の諸分野が交錯する多言語・多言語状況を論じた。

  • 井上 綾瀬
    印度學
    佛教
    學研究

    2022年 71 巻 1 号 403-398
    発行日: 2022/12/20
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

    Stories about grapes are more common in the Vinaya of the Sarvāstivādin than in that of the Theravāda. Edible grapes come from two sources: the European grape hails from the Caucasus, and the American grape from North America. This paper examines the grape-growing areas of ancient India and the surrounding region, considering the use of the Vinayas and confirming the knowledge of the ancient Indians through stories of grapes in the Vinayas.

    Grape stories in the Vinayas are neither as detailed nor as numerous as those in ancient Greek and Roman texts. According to the travellers Hyech’o 慧超 (704-787) and Xuanzang 玄奘 (602-664) , grapes were cultivated in Kashmir and Kāpisī. This is also the case with Kauṭilya’s Arthaśāstra. Kauṭilya, Hyech’o and Xuanzang offer the same evidence, although from different periods. The distance a camel or donkey carrying a 100 kg load can travel in a day is 30-40 km. It is not easy to transport fresh grapes to the interior of India, and sssuming that grapes are not grown in the interior of the Indian subcontinent, it is not known where the Vinayas were used.

  • 冬月
    宗教と社会
    2014年 20 巻 169
    発行日: 2014年
    公開日: 2017/07/19
    ジャーナル フリー
  • 冬月
    宗教と社会
    2021年 27 巻 147-149
    発行日: 2021/06/05
    公開日: 2023/06/24
    ジャーナル フリー
  • 佐々木 閑
    印度學
    佛教
    學研究

    2003年 51 巻 2 号 812-806
    発行日: 2003/03/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 田中 純男(海量)
    智山学報
    2016年 65 巻 49-62
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        仏滅直後の
    仏教
    教団のあり方を考えてみたい。釈尊は紀元前383年に入滅し、アショーカ王が前268年に即位したという説に拠るならば、この115年間という時代が考察の対象となる。したがって、仏滅直後とは、ここでは滅後100年頃までとしておきたい。
     この100年という時間の隔りにおける教団の歴史的変遷をさまざまな角度から検討することが必要となろうが、先にアショーカ王時代の
    仏教
    について、特に舎利信仰に着目して考察したが、そこでその時代すでに舎利信仰が何らかの形をとって存在していたことを見た(1)。本稿ではさらに、舎利信仰が発生してくると思われる歴史的、地理的環境を探るために、アショーカ王の時代より少し遡り、やや詳しい検討を加えてみたい。確たる資料が乏しいため、断片的情報を繫ぎあわせての推測ともなりかねないが、あくまで事実と考えられる事柄を中心に考察することにしたい。
  • 奥平 龍二
    パーリ学
    仏教
    文化学

    2005年 18 巻 31-44
    発行日: 2005/02/20
    公開日: 2018/09/01
    ジャーナル フリー
  • 京都市における取締り政策を事例として
    山本 奈生
    犯罪社会学研究
    2007年 32 巻 120-133
    発行日: 2007/10/20
    公開日: 2017/03/30
    ジャーナル フリー
    G・ケリングらの「割れ窓理論」は,これまで国内外の警察政策に対し一定の影響力を発揮してきたが,そこに見られるコミュニタリアン的色彩の強さから,賛否を巡る多くの議論の的ともなってきた.しかし,そうした議論とは裏腹に,政策決定の現場やマスメディアにおいては,ほとんどの場合,「治安の悪化」に対する特効薬として肯定的に評価されてきたと言ってよい.本稿では,「割れ窓理論」に基づく取締り政策の事例として,京都市における「祇園・木屋町特別警察隊」の試みを取り上げ,質的な分析を加えることによって,ここでの取り組みが指示する「無秩序」がどのような立場から定められているのかを問題とする.この調査が照準するところは,(1)京都市の取り組みで,「安全・安心」を希求する主体はどの位概に在るのか,そして何が「無秩序」として分割線の外部に引き出されているのか.(2)バーテンダーなど街で働く人々は,この警察政策をどのように捉えているか,の二点であり,これらの考察を通して,「割れ窓理論」が持つ理論的な問題点を描写する.
  • 山極 伸之
    印度學
    佛教
    學研究

    1987年 36 巻 1 号 398-396
    発行日: 1987/12/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 釋舎 幸紀
    印度學
    佛教
    學研究

    1987年 36 巻 1 号 17-24
    発行日: 1987/12/25
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • ー智積院蔵『醍醐祖師聞書』を手がかりとしてー
    宇都宮 啓吾
    智山学報
    2016年 65 巻 453-472
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
    稿者は、前稿(1)において、智積院新文庫蔵『醍醐祖師聞書』(53函8号)について、次の二つの記事を手掛かりとしながら、

    ○頼賢の法華山寺での活動
    (略)遁世ノ間囗ノ/峯堂(法華山寺)ニヲヂ御前ノ三井寺真言師ニ勝月(慶政)上人ノ下ニ居住セリ/サテ峯堂ヲ付屬セムト仰アリケル時峯堂ヲハ出給ヘリ其後律僧ニ成テ高野山一心院ニ居其後安養院ノ/長老ニ請シ入レマイラセテ真言ノ師ニ給ヘリ  (6裏~7表)

    ○頼賢の入宋 遍知院御入滅ノ時此ノ意教上人ニ付テ仰テ云ク我ニ四ノ思アリ遂ニ不成一死ヌヘシ 一ニハ一切經ヲ渡テ下●酉酉ニ置キタシ二ニハ遁世ノ公上ニ隨フ間不叶●死スヘシ 三ニハ法花經ヲ千部自身ヨミタカリシ不叶 四ニハ青龍寺拝見セムト思事不叶頼賢申テ云ク御入滅ノ後一々ニ四ノ御願シトケ申サル其後軈遁世セリ軈入唐シテ五千巻ノ一切經ヲ渡シテ下酉酉ニ經藏ヲ立テ、納也此時意教上人ハ青龍寺拝見歟不見也御入滅後三年ノ内千部經ヨミテ結願アリ四ノ事悉ク皆御入滅後叶給ヘリ(6表~6裏)
    主として、以下の如き四点について指摘した。

    ①智積院新文庫蔵『醍醐祖師聞書』は、従来、奥書の類による確認でしか叶わない、意教情人頼賢の高野山登山前の法華山寺での活動や頼賢入宋の記事を含む新発見の「頼賢伝」資料として位置づけられる。
    ②法華山寺慶政を頼賢の「ヲヂ御前」とする記事から頼賢と慶政との関係の深さが確認できると共に、別の箇所では「意教ノ俗姓ハ日野(ヒノ、)具足也」(5裏)とする記述の存することから、頼賢の出自についても新たな資料が得られる。
    ③②を踏まえるならば、本書が慶政の出自に関わる新資料の提示ともなっていることから、慶政を「九条家」出身とする従来説との関連を考える必要が存し、その意味で、慶政の出自に関する再検討が俟たれる。
    ④本書の「頼賢伝」(頼賢の入宋と法華山寺慶政との関係)は、意教流、特に、東寺地蔵院流覚雄方相承の中において伝えられていたものと考えられる。また、本書が、家原寺聖教の一つであることから、家原寺を拠点とした律家側の資料として文章化されたものと考えられる。

     前稿においては、新たな「頼賢伝」資料の提示を中心とした、本書の紹介に主眼が存したため、本書の成立の背景や本書の記事を手懸かりとした分析には至っておらず、この点に関する検討の必要性を感じる。
     そこで、本稿においては、本書分析の一つとして、本書の成立の〝場〟について考えると共に、本書の記事を手懸かりとした東山と根来寺とを巡る問題についても検討したい。
  • 山極 伸之
    日本佛敎學會年報
    2004年 69 巻 _46_-_64_
    発行日: 2004年
    公開日: 2024/05/10
    ジャーナル フリー
  • 佐竹 隆信
    智山学報
    2016年 65 巻 553-602
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル フリー
        江戸時代後期、御室より安芸国の福王寺が有部律の道場として認められた。上田天瑞氏によれば(1)、その際、福王寺の僧学如(1716~1773)は御室に『真言律行問答』、「福王寺を有部律復興の道場とする願書」、『真言八祖有部受戒問答』の三書を提出したとされる。これらのうち『真言律行問答』、「願書」の二書についてはすでに些かの紹介を行った(2)。残る『真言八祖有部受戒問答』は左の二本の中に收められている。
     1 『小部類集』 (写本) 写年不明 福王寺蔵
     2 『真言律行問答』(謄写本) 昭和九年刊 高野山大学図書館蔵
     1は学如の自筆ではなく転写本と考えられ、いくつかの著作を一冊にまとめたものであるが、他の諸著作については別な機会を待ちたい。また2の高野山大学図書館本は『国書総目録』で活字本とされているが、電子複写された物をみると謄写本であると考えられる。また2の謄写本は前稿でも述べたように(3)、長谷宝秀氏が福王寺所蔵のものを書写し、後に謄写した本であるが、多くの誤脱箇所が確認された。福王寺所蔵本を写したものではあるが、それは1の本ではないと考えられる。
     今現存しているのはこの二本であるが、本書の奥書には(4)
      明和三年十一月於金亀山方丈書獨語
    とある。前述したように御室に三書を奏上したとすれば、他の二書の成立年代から考えると『真言八祖有部受戒問答』は少し遅れて成立したと言えるだろう。しかし、御室に提出したか否かは確実ではない。また本書は『真言律行問答』や「願書」の内容と大きく異なる点はないが、先の二書にはない論述もみられ、学如の主張を読み解く上で重要と思われる。また本書はこれまで二本しか存在が確認されず、広く普及しているとは言い難い。そのため資料として福王寺所蔵本を底本として翻刻を後半に付す。
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