詳細検索結果
以下の条件での結果を表示する: 検索条件を変更
クエリ検索: "日本のスポーツ"
964件中 1-20の結果を表示しています
  • 森川 貞夫
    スポーツとジェンダー研究
    2007年 5 巻 76-78
    発行日: 2007年
    公開日: 2023/06/28
    ジャーナル オープンアクセス
  • 米田 良祐, 越川 茂樹
    スポーツ産業学研究
    2011年 21 巻 2 号 257-261
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/11/23
    ジャーナル フリー
        This paper introduces the "Masters Classic" tennis event and discusses it from the viewpoint of sports promotion.
         As a result of studying this event, the possibility of "spectator tennis" was suggested. At the same time, the importance of non-compelled management and continuing examination of this event in planning a strategy for the future and for making improvements were pointed out. Moreover, the necessity of deciding on a suitable admission fee was confirmed.
  • 伊藤 公雄
    学術の動向
    2019年 24 巻 12 号 12_49-12_53
    発行日: 2019/12/01
    公開日: 2020/04/24
    ジャーナル フリー
  • 天野 郡寿
    日本体育学会大会号
    1983年 34 巻
    発行日: 1983/08/18
    公開日: 2017/08/25
    会議録・要旨集 フリー
  • 熊安 貴美江
    スポーツとジェンダー研究
    2014年 12 巻 2-3
    発行日: 2014年
    公開日: 2017/04/28
    ジャーナル オープンアクセス
  • 「ジェンダー・トラブル」論の視点から
    稲葉 佳奈子
    スポーツ社会学研究
    2005年 13 巻 53-67,124
    発行日: 2005/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、
    日本のスポーツ
    とジェンダー研究の新たな視角を提示することを目的とする。
    日本のスポーツ
    とジェンダーを問題にしたいくつかの研究をとりあげ、それらがスポーツの何を問題にし、それをどのように分析し、スポーツのどこに変容の可能性を見出しているのかという点に注目しながら、これまでの議論を整理した。このとき理論的に依拠しているのは、バトラーの『ジェンダー・トラブル』[1990=1999]におけるジェンダー論である。したがって、本稿が用いるジェンダーという語には、社会的・文化的な「性」のみならず、身体レベルでの「性」が含まれる。
    これまでの研究によって、スポーツによる/における「男/女」の構築や、それを支えるのが異性愛主義であることなどが明らかにされてきた。それらは
    日本のスポーツ
    とジェンダー研究の大きな成果である。しかし一方で、本稿がとりあげた先行研究の検討から、それらが異性愛主義の問題性をいかに認識するかという点においていくつかの課題をもっていること、それゆえに、模索されているスポーツの変容の可能性においても、ある「限界」が内包されているということが明らかになった。
    そうした状況の乗り越えを図るために、以下の結論を示した。変容の可能性は、異性愛主義体制において「男/女」が構築されるときの「失敗」に見出せる。したがって、今後の研究に向けて想定され、
    日本のスポーツ
    とジェンダー研究におけるもう一つの視角として提示されるのは、異性愛主義体制の「内部」からの「攪乱」である。そのような視角からの理論的検討は、スポーツによる/における「『男/女』の完璧な構築」プロセスでつねにすでに起きているはずの「失敗」を、あるいはその瞬間を、そして「失敗」を生みださずにはいられない体制の非本質性を、理論的に可視化して示してみせることになる。
  • 松田 義幸
    スポーツ産業学研究
    1991年 1 巻 1 号 60-71
    発行日: 1991/03/31
    公開日: 2010/07/27
    ジャーナル フリー
  • 石手 靖, 大嶽 真人, 依田 珠江, 植田 史生
    日本体育学会大会号
    2003年 54 巻
    発行日: 2003/08/26
    公開日: 2017/08/25
    会議録・要旨集 フリー
  • 沖村 多賀典
    生産管理
    2020年 27 巻 2 号 147-152
    発行日: 2020年
    公開日: 2023/12/10
    ジャーナル フリー

    国民のスポーツ需要に対し,政府は公共スポーツ施設をどこまで,どのように整備すべきであろうか.本研究は,この問題に関する基礎的な事実を整理することを意図し,日本における公共スポーツ施設の整備基準について検討した.具体的には第1に,政府がこれまでにどのような基準を示してきたのかを調査し,1972年の保健体育審議会答申を最後に明確な量的基準が示されなくなったこと等を指摘した.第2に,この1972年の基準から2015年の公共スポーツ施設数を評価し,充足率は62.9%まで高まっているものの未だに100%に達しておらず,これ以上高まる見込みがないこと,算出方法やスポーツの時代変化からみると,国民のスポーツ環境は後退していると捉えられること等を明らかにした.この事実を出発点とした新たな整備基準の設定が望まれる.

  • 関 春南
    日本体育学会大会号
    1987年 38A 巻 001104
    発行日: 1987/08/15
    公開日: 2017/08/25
    会議録・要旨集 フリー
    西ドイツと日本の戦後の政治・経済過程は、極めて類似した状況にある。しかし、スポーツ過程には大きな差異が生みだされている。
    日本のスポーツ
    政策の貧困に比べ、西ドイツでは、golden planに見るように大々的なスポーツ施設建設計画が策定・展開され、sport for allが積極的、具体的に進められるといった状況がつくりだされている。この差異の性格はいかなるものであり、その根源はどこにあるのか。この解明は、
    日本のスポーツ
    政策を展望しようとするとき重要な課題となっている。今回は、戦後改革の過程(1945-1950)を問題にするが、とりわけドイツ・スポーツ連盟が、統一組織として成立するに至るまで、いかなる内的矛盾が存在し、いかなる抗争が繰り広げられ、その過程でいかなる性格が付与されていったのか、を明らかにしたい。このことは、ドイツ・スポーツ連盟のその後の発展の姿及び民主主義の質を認識する前提となるであろう。
  • 森川 貞夫
    スポーツ社会学研究
    2000年 8 巻 24-49,126
    発行日: 2000/03/20
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    東京高等師範学校-東京文理科大学-東京教育大学につながる同窓組織「茗渓会」は, 戦前戦後を通じて日本の教育界に有数の人材を輩出したばかりでなく,
    日本のスポーツ
    の普及・発展にも大きな役割を果たした。しかしそれは同時に天皇制ファシズムの下では国家的イデオロギーと結びついたスポーツ政策と一体のものであった。しかも東京高師設立の目的が師範学校校長および教員を養成することであったこと, また実際に卒業生の大半が戦前においては全国の中等学校・師範学校および教育行政の中枢にあったためにかれらは, その国家的イデオロギーを率先実行する「下士官」の役割をになわざるを得なかった。
    したがってスポーツに限ってみても
    日本のスポーツ
    の普及・発展に貢献すると共に戦前のスポーツによる国威発揚・体力向上・思想善導政策に積極的に加担していくという東京高師出身者の歴史的・社会的役割は避けがたいものであった。しかしその体質は戦後のスポーツの民主化の際に「戦争責任」や「戦争反省」を深く問うこともなく, 無批判に体制に順応し自らが積極的に従属していくというものであり, 今なおその体質が問われるところである。このような体質はスポーツ界にあっては支配的ではあるが, すべての者がそのような立場に立つというわけではない。それを分けるのは東京高師出身者の社会的階層が丸山真男のいうところの中間層の, 主として「第一類型」に属しているところから来るものであり, 国民大衆の側につくのか, 支配的権力の側につくのかの「動揺」はたえずつきまとうものであり, その選択は個人の主体形成に関係する。しかもそれはまた内部での「凌ぎ合い」に加えて, 外部での茗渓外出身者との「覇権争い」もあり, たえず自己矛盾に苛まれざるを得ないものである。
  • 松浪 健四郎
    日本体育学会大会予稿集
    2008年 59 巻
    発行日: 2008/09/09
    公開日: 2017/04/06
    会議録・要旨集 フリー
  • 齊藤 恵理称, 中村 好男
    スポーツ産業学研究
    2012年 22 巻 1 号 209-214
    発行日: 2012年
    公開日: 2012/04/25
    ジャーナル フリー
        In this article, the authors studied how the strength of sports could contribute to reconstructing Japan after the great East Japan earthquake, based on the following two researches. One was a survey of the sports-related associations and companies to figure out the actual situation of the kind activities they carried out for reconstruction. The other one was a survey of people who were living in the ruined area caused by the great East Japan earthquake to assess how they felt about the efforts for reconstruction which the sports-related associations and companies did and what effects these efforts had on them.
        The study revealed that about 80% of the sports-related association and companies carried out some efforts for reconstruction, such as monetary donations, charity events and relief supplies. On the other hand, it showed that very few people in the disaster area had met these efforts for reconstruction. However, regarding TVCM including the message from sport athletes to encourage people for reconstruction, it showed that 80% of people in the ruined area watched TVCM and more people who watched TVCM answered “sports can contribute to reconstruction” in comparison with people who did not watch TVCM.
        These results lead to the suggestion that the power of sports could contribute to reconstructing Japan and that promoting the communication of efforts by the sports-related associations and companies for reconstruction will help to enhance the power of sports for reconstruction.
  • 西山 哲郎
    スポーツ社会学研究
    2014年 22 巻 1 号 51-60
    発行日: 2014/03/30
    公開日: 2016/07/02
    ジャーナル フリー
     本稿では、
    日本のスポーツ
    の場に根強く残る体罰の問題について、直接的な批判ではなく、体罰容認論からアプローチして解決の糸口を考えてみる。世界的に人権意識が高まり、日本でも教育の場で体罰容認論を主張することはほぼ不可能となっているのに、スポーツの場ではコーチ側だけでなく、選手やその保護者の側にも許容論がなくならない。その理由は、ここ日本でスポーツ活動を通じて達成が期待されている「人間の成長」や「社会化」が、諸外国とは違った発展を遂げてきたからではないだろうか。
     
    日本のスポーツ
    の場で、体罰が容認される際によく見られる言説は2種類に分類できる。ひとつは「礼儀作法や上下関係を守るため」で、もうひとつは「選手個人では乗り越えられない壁をコーチとの共生関係を利用して乗り越えるため」である。両者に共通するのは、競技スポーツでの業績達成より組織の維持を優先する〈集団主義〉と、自他の境界を曖昧にして、言語より身体的コミュニケーションを発達させる〈心身一元論〉であった。
     日本の体罰容認論は単に伝統的なものではなく、平成時代に入ってからの高校や大学受験におけるスポーツ推薦入試枠の拡大の影響でむしろ強化されてきた。しかし、グローバル化の深化などによって、社会で求められる人材像に変化が見られる今、
    日本のスポーツ
    界も体罰を許容しない育成制度を模索し始めている。
  • リー トンプソン
    スポーツ社会学研究
    2008年 16 巻 21-36
    発行日: 2008/03/20
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、
    日本のスポーツ
    メディアにおける「日本人種」言説を浮き彫りにすることである。
    2007年に、黒人選手の身体能力に対するステレオタイプを有害な神話として批判するホバマンの翻訳本が出た (Hoberman, 1997)。この本は、人種は生物学的なカテゴリーなのか社会的なカテゴリーなのかという、欧米における人種論争を起点としている。人種に関してホールは「言説的な立場」をとる。人種とは、人類の無限の多様性を整理するための言説上の概念である、という。
    深刻な人種問題を歴史的な背景に、欧米の人種論争は主に黒人を中心として展開されている。日本において人種が話題になる場合も、その欧米の論争を反映して黒人問題が中心になることは多い。そのため、日本において主流といえる人種言説は見逃されやすい。日本における主流の人種言説とは、外国人と区別した「日本人種」を想定する言説である。
    本稿では、ホールの「言説的な立場」から人種をとらえる。本稿の目的は、いくつかの事例を分析することによって日本のメディア、特にスポーツメディアにおける一つの主流の人種言説である「日本人種」言説を浮き彫りにすることである。書籍、広告、そしてテレビ中継、多様なメディアからの事例を取り上げる。テクストに登場するスポーツ種目は欧米発祥の陸上競技と日本古来の大相撲である。テクストの分析を通して、「外国人」を対照として日本人には共通した「身体特性」があるという人種的な考えを浮き彫りにする。そしてその人種が及ぶ範囲やそれが持つ意味などは、テクスト間、あるいは同じテクストのなかにも一定していないことを指摘する。
  • 清水 紀宏
    日本体育学会大会号
    1999年 50 巻 S0703
    発行日: 1999/09/15
    公開日: 2017/08/25
    会議録・要旨集 フリー
  • 古池 悠夏
    スポーツ産業学研究
    2022年 32 巻 1 号 1_149-1_151
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/01/20
    ジャーナル フリー
  • ―日本のスポーツ文化と「集団主義」―
    伊藤 公雄
    スポーツ社会学研究
    2009年 17 巻 1 号 3-12
    発行日: 2009/03/20
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー
     「日本人の特異な国民性は、彼らが自らの国民性に強い関心をもっていることだ」とは、しばしば指摘されるところである。日本人の特徴という点で、戦後日本社会においてほぼ例外なく共有されているイメージに「集団主義」がある。「個人より集団を優先する傾向」としての「集団主義」という視点から、(日本人は)「個人というものが確立していない」「和を尊び、つねに集団として行動する」とする見方は、海外においても、強固なイメージとして定着している。
     スポーツを通じた「日本的集団主義」論として、よく知られた著書に、ロバート・ホワイテイングによる『和をもって日本となすYou Gotta Have Wa』(初出は1989年)がある。ホワイテイングは、こうはっきりと書いている。「集団的調和、すなわち和の概念は、アメリカ野球と日本のそれとをもっとも劇的に区分するものだ。和は、すべての日本人の生活とスポーツを貫いて作用している。『他人にかまわず思い切りやれ』とか『自分の思うことをやれ』は、現代のアメリカ社会のモットーだが、日本人の信条は、よく知られた次のようなことわざに示されている。『出る釘は叩かれる』。これは、実際、国民的なスローガンなのだ」(Whiting,1989:70 伊藤訳、翻訳書ホワイティング=玉木訳、1990:115頁相当箇所)。しかし、戦前期に書かれた比較スポーツ文化論には、「剣道、柔道にしても、二人の対抗勝負であるが、西洋の競技は多人数合同して、協同的動作を要する。…一体我が国の生活は従来は個人的であり、階級的であったから、勝負事までもそうであった」(下田、1928年)といった記述もみられる。
     本稿では、こうした近代日本における集団スポーツの構図を、歴史的・文化的文脈に沿いながら、現在議論されつつある社会心理学分野での研究成果などを参照しつつ、「日本的集団主義」の問題について考察を加える。その上で、1990年代のJリーグ誕生以後の
    日本のスポーツ
    ・シーンにおける「集団性」の変容の兆を、現代日本社会における社会関係の変化と重ねることで、スポーツ社会学からの日本社会論へのアプローチの可能性について論じようと思う。
  • 「体罰」問題を考える
    石坂 友司
    スポーツ社会学研究
    2014年 22 巻 1 号 3-6
    発行日: 2014/03/30
    公開日: 2016/07/02
    ジャーナル フリー
  • *玉田 理沙子, 伊藤 雅充
    日本体育・スポーツ・健康学会予稿集
    2021年 71 巻 1P198-161-64
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/12/28
    会議録・要旨集 フリー

    2020年、国際人権NGOであるヒューマン・ライツ・ウォッチは、

    日本のスポーツ
    において子どもの虐待が行われているという報告書を発表した。近年ではこのような虐待に代表されるスポーツ指導の問題が多く表面化している。これらの問題が
    日本のスポーツ
    指導文化、特に勝利至上主義に起因するものであるという考えもあるが、
    日本のスポーツ
    指導が国際的なコーチングで目指されているものと異なるのかどうかは興味深いところである。そこで本研究は、日本固有の文化で発展してきた剣道に着目し、指導者がアスリートに何を育もうと指導しているのか、さらにアスリートはその指導によって何を獲得したと考えているのかを明らかにし、スポーツ指導の質向上のための方策を練る糸口を探すことを目的とした。高校剣道指導者10名と彼らの指導を受けた大学生アスリート24名を対象者とし、半構造化インタビュー及びフォーカスグループインタビューを実施した。

    指導者のデータをSCATおよびKJ法を用い分析した結果、【人間性】と【競技力】の2つの大カテゴリーに分類できた。さらに、【人間性】には①生涯剣道、②剣道愛、③向上心、④Grit、⑤プロセス、⑥考える力、⑦自立、⑧規範意識、⑨社会性の9つの中カテゴリーに分けることができた。この内容はコーチングの目的として指標となっている4C’s(Côté and Gilbert , 2009)の内容と矛盾しないと考えられた。アスリートは、高校時代の経験を通して獲得したこととして、指導者が育もうとしていることと同様の内容を挙げており、両者の間に大きな矛盾はみられなかった。本研究では指導者とその指導を受けたアスリートの語りから分析を試みたが、ここからは問題解決に直結する情報を得ることができなかった。今後は実際の行動を観察するなど、エスノグラフィックな研究を行うことで、実際の指導を評価する必要があると考えられた。

feedback
Top