想定外とされた東日本大震災から7年が経過し,被災した自治体と住民が進めてきた復興事業の結果,復興後の新たな地域の姿がみえ始めている.地域社会の復興形態は様々であり,被災の程度,予算の規模,文化的な背景などが復興形態の地域差の形成に寄与すると考えられる.矢ケ﨑(2017)はレジリエンスの概念を用いて地域社会の復興について検討し,東日本大震災以前の地域社会の特性が復興の形態に影響を与えることを明らかにした.その一方で,この知見はあくまで1つの事例に基づくものであり,複数の事例による比較研究が求められる.
本研究は,宮城県気仙沼市浦島地区における4つの集落の復興に着目し,その形態と過程を比較検討することによって,地域社会のレジリエンスと復興後の地域の変化を明らかにすることを目的とする.研究方法として,地域社会のレジリエンスに寄与するとされる東日本大震災以前・以後という2つの段階を分析し議論を進める.東日本大震災以前では地域社会の歴史と防災体制について,その以後では地域社会の復興過程とその形態について分析する.
研究対象とする浦島地区は,大浦,小々汐,梶ヶ浦,鶴ヶ浦の4つの集落から構成される。これらの集落は歴史や文化の点では類似するものの,詳細に見ると,集落ごとに被害の程度,復興の過程,復興後の地域社会の特徴が異なっている.
浦島地区の地域社会は,江戸時代から気仙沼湾における労働集約的なイワシ漁を生業としたため,各集落で同族結合型の社会構造が構築された.なお,1960年ごろに気仙沼湾内のイワシが少なくなり,カキやワカメの養殖へ転換した.これらの漁業を中心とした集落の歴史から,集落は海岸線の低地に形成され,過去にも津波を経験していた.
過去の津波に関する資料をみると,大浦,小々汐,梶ヶ浦は昭和津波とチリ津波の被害が少なく,鶴ヶ浦はこれらの津波で大きな被害を受けた.そのため,鶴ヶ浦では各家が高台への住宅の移転を進め,津波の被害を受けにくい集落の構造が形成された.結果として,東日本大震災では,大浦,小々汐,梶ヶ浦の被害は甚大で,相対的に鶴ヶ浦の被害は小さかった.
東日本大震災後の各集落の復興をみると,鶴ヶ浦では防災集団移転が行われず,被災した住民は独自で住宅再建を行った.なお,被災した鶴ヶ浦の住民の一部は隣接する梶ヶ浦の防災集団移転に参加した.大きな被害を受けた大浦,小々汐,梶ヶ浦では防災集団移転を住民主導で行った.最初に防災集団移転の合意形成がなされたのは最も人口の大きい大浦であり,小々汐や梶ヶ浦は大浦の事例の影響を受けて防災集団移転が実施された.この3つの集落では,
日本国際ボランティアセンター
の支援の元で,合同集会が実施され,防災集団移転の知見が共有された.
これらの防災集団移転が行われる一方で,人口減少の傾向が著しかった.そのため,3つの集落ごとに転出者が属する「賛助会」が組織され,急激な人口減少を補っている.賛助会に属する転出者の居住地は気仙沼市内であった.つまり,気仙沼市内の他地区へ転出した住民は,東日本大震災後も浦島地区と関係性を保っている.
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