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クエリ検索: "日活ロマンポルノ"
23件中 1-20の結果を表示しています
  • -日活ロマンポルノを映し出す空間の比較検討を通じて-
    *田伏 夏基
    日本地理学会発表要旨集
    2023年 2023a 巻 518
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/09/28
    会議録・要旨集 フリー

    日活ロマンポルノ
    に代表される成人映画は,1970年代に制作の最盛期を迎えた.当初,その主たる客層は男性であり,専門館など閉じられた空間において男性向けに上映されることが一般的であった.そうした中にあって大分県の湯布院では,1976年の第1回から,公共施設において
    日活ロマンポルノ
    を上映する映画祭が開催されており,性差を問わず開かれた空間で成人映画を観ることができる特異な空間性が構築されてきた.本報告は,この湯布院映画祭を対象として,映画上映の空間性の差異と観客の経験の関係性を検討する.

     湯布院映画祭は,2022年に第47回の開催を迎えた国内でも歴史ある映画祭の一つである.映画祭の主なプログラムとしては,まず初日の前夜祭で,駅前広場での無料野外上映と伝統芸能である神楽が披露される. 2日目以降の会場はゆふいんラックホールとなり,そこでは映画祭実行員が選出する特集上映と新作映画のプレミア上映が実施され,上映後にはシンポジウムが開催される.

     報告者は,2022年8月25日から28日にかけて第47回湯布院映画祭に運営スタッフとしてフィールド調査を実施した.また,映画祭関係者によるアーカイブ資料から本映画祭の歴史的文脈についても分析した.

     第1回湯布院映画祭での

    日活ロマンポルノ
    特集上映に対しては,地域住民から公共施設での上映に対する抗議を受けた.しかし,作品選定については,映画祭実行委員に一任されていたため,最終的に公民館ではなく,町立体育館で上映するということで実施された.

     映画祭開催後も町議会で議題となるなど,町内からの問題視は続いた.これを受け映画祭実行委員側も,第2回以降,上映を自粛していたが,第6回から

    日活ロマンポルノ
    作品の上映が再開される.その後湯布院映画祭において
    日活ロマンポルノ
    上映は,それまで出会い得なかった人びとを結びつける空間性をも獲得していく.

     公共施設における

    日活ロマンポルノ
    上映は,専門館など閉じられた空間での上映の場では得ることができなかった,映画人と観客が語り合う出会いの場を構築した.それは,第47回湯布院映画祭での,
    日活ロマンポルノ
    作品『手』上映後のシンポジウムにおいて,年齢や性差を問わず,作品関係者からの一方的なティーチングではなく,ディスカッションの場が生み出されていた点にも表れていた.

     このように,公共施設において成人映画を上映するという,一見すると特異な映画上映の空間性は,その場を共有する人びとに連帯性を生み出し,作品解釈をめぐる新たな視角を生み出すのである.

  • *杉本 和子
    日本映画学会例会報告集
    2020年 9 巻
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/06/17
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • 郷愁を伴った野性のエロティシズム
    小暮 修三
    映画研究
    2016年 11 巻 40-56
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/02/24
    ジャーナル オープンアクセス
  • 今井 瞳良
    映像学
    2019年 102 巻 137-154
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    本稿は、白川和子が主演した

    日活ロマンポルノ
    の団地妻シリーズ『団地妻昼下りの情事』( 西村昭五郎監督、1971 年 ) と『団地妻 しのび逢い』(西村昭五郎監督、1972 年)の分析を通して、「団地妻」が「密室に籠る団地妻」からの解放を模索していたことを明らかにする。団地妻は憧れのライフスタイルであるとともに、社会から隔絶され、孤立した「密室に籠る団地妻」としてイメージされてきた。ところが、団地妻イメージとして絶大な影響力を持った白川主演の「団地妻映画」は、「密室に籠る団地妻」からの解放を模索する「団地妻」と、会社に組み込まれた不安定な「団地夫」の夫婦を定型としている。「団地妻映画」は、「密室に籠る団地妻」というイメージにはあてはまらない作品であったのだ。ところが、結婚して本物の団地妻となり引退した白川和子は、「団地妻映画」と「密室に籠る団地妻」という相反するイメージを接続させ、遡行的に団地妻イメージの起源となっていく。白川が「団地妻」を演じた『昼下りの情事』と『しのび逢い』は、「密室に籠る団地妻」からの解放を模索する「団地妻映画」であったにもかかわらず、団地妻イメージの起源として捏造されたのである。

  • 今井 瞳良
    映像学
    2020年 104 巻 95-113
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    本稿は、

    日活ロマンポルノ
    の団地妻シリーズが性別役割分業を前提とした「団地妻」イメージの起源でありながら、固定化された「団地妻」言説を批評するシリーズでもあったことを明らかにする。ロマンポルノ裁判をきっかけに興隆した映画評論家や批評家によるロマンポルノ言説は、低俗な娯楽とみなされるロマンポルノを称揚するために、芸術的創造の主体としての監督を必要とした。そのため、複数の監督によって製作された団地妻シリーズが批評的な評価を得ることは、ほとんどなかった。ところが、団地妻シリーズの第1作『団地妻 昼下りの情事』(西村昭五郎監督、1971年)は、専業主婦として家にいる女性と仕事で通勤している男性を分割するジェンダー化された空間である団地を舞台に、性別役割分業を前提とした中流階級の安定性を支える高度経済成長期以後の戦後史の語りに組み込まれることで、「団地妻」イメージを室内で退屈する専業主婦として固定する「団地妻」言説を生み出していった。しかし、その後の団地妻シリーズは人気シリーズとしてマンネリの打破やメディア状況の変化、他社製作などに対応しながら1971年から1987年まで全29作も作り続けられたことによって、多様な「団地妻」を描き出し、固定化された「団地妻」言説に対する批評性を獲得していることを明らかにした。

  • 『実録阿部定』が示す親和性
    鳩飼 未緒
    映像学
    2016年 96 巻 27-47
    発行日: 2016/07/25
    公開日: 2016/08/19
    ジャーナル フリー

    【要旨】

    本稿は

    日活ロマンポルノ
    の田中登監督作、『実録阿部定』(1975 年)を論じる。異性愛者の男性観客をターゲットに製作され、同時代的にはほぼ男性のみに受容された本作が、想定されていなかった女性観客との親和性を持ち、家父長主義的なジェンダー規範を再考させる転覆的な要素を内包することを説き明かす。背景にあるのは、ロマンポルノに関する既存の言説が男性の手による批評ばかりで学術的見地からの評価が進んでおらず、同時代的にも少数ではあれ存在し、昨今その数を確実に増やしている女性観客の受容の問題が論じられていない現状に対する問題意識である。そこで第1 節ではロマンポルノにおける女性の観客性を考察するうえでの古典的なフェミニスト映画理論の限界を明らかにしつつ、ジェンダーの固定観念を逸脱する表象の豊富さによって、ロマンポルノが異性装のパフォーマンスと呼べるような流動的な観客経験をもたらしうることを論じる。続く第2 節では『実録阿部定』の視聴覚的・物語的要素を仔細に検討し、とりわけヒロイン定の表象が保守的なジェンダー観に背くものであることを確認する。最終的には、第2 節で考察した特徴によって『実録 阿部定』が女性観客に異性装的な観客経験による映画的快楽をもたらすことを示し、さらには女性の主体的な性的快楽の追求を肯定させる仕組みがテクストに内在することを明らかにしたい。

  • ―猥褻裁判、男性映画監督、フェミニズム言説の交錯地点―
    堀 ひかり
    女性学
    2004年 11 巻 107-122
    発行日: 2004/04/15
    公開日: 2022/02/17
    ジャーナル フリー
  • 湯布院映画祭を通して
    藤田 修平
    映像学
    2017年 97 巻 65-86
    発行日: 2017/01/25
    公開日: 2017/03/03
    ジャーナル フリー

    【要旨】
    函館イルミネイションやあきた十文字、青森、湯布院といった地域の名前がついた映画上映イベントを「地域の映画祭」と呼ぶとすれば、それらはカンヌやベルリンといった国際映画祭とは異なり、プレミア上映を行う場でも映画作家を見出す場でもなく、(その地域で上映されることのなかった)商業映画を上映するだけに留まるが、地域の住民が企画・運営を担っていることに特徴がある。「地域の映画祭」は1970年代半ばに誕生し、全国に拡がり、1980年代に入って地方公共団体の支援が始まるとその数は増加し、2007年には100以上の映画祭が確認された。こうした映画祭はいかに誕生し、どのような特徴を持っているのか。また、国際映画祭との違いは何か。本稿では日本で最も古い映画祭であり、「町おこし」や「地方の映画祭」のモデルとされた湯布院映画祭を取り上げ、その誕生に至る経緯と背景を探る。その上で映画祭という新しい映画受容の〈場〉を公共空間として捉え、ハーバーマスやアーレントの研究を参照しながら、

    日活ロマンポルノ
    が上映されたこと、外国映画の上映やゲストの招待をめぐって内部で大きな対立に発展したことを手掛かりとして、その〈場〉の特徴を探っていく。

  • 川田 三夫
    青年心理学研究
    1992年 4 巻 9-
    発行日: 1992/11/01
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー
  • 長谷部安春の作品群を例に
    鳩飼 未緒
    映像学
    2018年 100 巻 92-111
    発行日: 2018/07/25
    公開日: 2019/03/05
    ジャーナル フリー

    【要旨】

     日活が成人映画のロマンポルノの製作・配給に転じた1971 年は、その戦後史における大きな転換点をなす。しかしながら、ロマンポルノ以前と以後の日活の間には連続性も見出すことができる。ロマンポルノの配給・興行形態は全盛期とほぼ同じであり、それを支える撮影所での製作の体制も引き継がれたものであった。日本映画全体の基盤としての撮影所システムが瓦解していくなか、1988年まで存続したロマンポルノは撮影所システムの延命策として機能したのである。本稿は、ニュー・アクションの担い手であり、1971年以降にはロマンポルノでも活躍した監督長谷部安春に着目する。具体的には、長谷部のロマンポルノ監督作9 本を取り上げ、長谷部のイメージを利用し観客にアピールしようとした日活側の戦略の変遷と、ロマンポルノという未知の映画の形態に挑戦し、適応していった長谷部の試行錯誤の過程とその限界について論じる。9本の映画は、売り手の日活、作り手の長谷部と、買い手として映画を受容する観客の思惑が絡み合った結果として生まれた。その経緯と、それぞれの映画のテクストに見出されるニュー・アクションとの連続性との関係を検討していき、最終的には、長谷部の9本のロマンポルノと長谷部の存在が、ロマンポルノによって撮影所システムを長らえさせていた日活にとって何を意味したのかが明らかになるはずである。

  • 『和具の海女』に映る民族/俗学的眼差し
    小暮 修三
    映画研究
    2015年 10 巻 28-43
    発行日: 2015年
    公開日: 2017/04/03
    ジャーナル オープンアクセス
  • 田代 真
    日本映画学会会報
    2022年 67 巻 9-14
    発行日: 2022/11/28
    公開日: 2024/03/25
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 中村 泰次
    新聞学評論
    1989年 38 巻 100-110,262-26
    発行日: 1989/04/30
    公開日: 2017/10/06
    ジャーナル フリー
    The self-control of the mass media is an autonomous act required by the social responsibility which accompanies the "freedom of expression". Through the practice of such self-control, the mass media responds to the recipients "right to know", ensures their confidence, and eliminates the unwarranted interference of public powers. It has been said that the idea of the "freedom and responsibility of the press" was born in Great Britfin and America during the closing years of World War II. In Japan, Freedom of the press was established by the General Headquarters of the Allied Forces (GHQ) after Japan's defeat, and it is included in the "fmeedom of expression" guaranteed by ohe Japanese Constituton. In this, the GHQ played a significant role. The Report of the American Commission on the Freedom of the Press and the recommendations of the British Royal Commission on the Press also had a considerable influence in this area. This paper presents a general survey of the ways in which the self-control of the mass redia has been shaped and practiced-including both merits and demerits-as a result of the media's beisg caught between the interference of public power and social criticism during the forty some years since the end of World War II. Finally, with an eye towards the future, the paper raises several problems which must be addressed.
  • 須川 まり
    映像学
    2022年 107 巻 153-157
    発行日: 2022/02/25
    公開日: 2022/03/31
    ジャーナル フリー
  • 書評
    碓井 みちこ
    映像学
    2014年 93 巻 74-78
    発行日: 2014/11/25
    公開日: 2019/07/25
    ジャーナル フリー
  • 『火口のふたり』論
    谷川 拓矢
    日本映画学会会報
    2020年 59 巻 4-9
    発行日: 2020/03/22
    公開日: 2025/03/31
    解説誌・一般情報誌 オープンアクセス
  • 久保 陽子
    演劇学論集 日本演劇学会紀要
    2022年 75 巻 92-99
    発行日: 2022/12/15
    公開日: 2023/01/07
    ジャーナル フリー
  • 『男はつらいよ』メロドラマ論への覚書
    今井 瞳良
    日本映画学会会報
    2023年 69 巻 2-12
    発行日: 2023/07/26
    公開日: 2024/03/25
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 『クロユリ団地』の境界を越える音
    今井 瞳良
    映画研究
    2017年 12 巻 26-43
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/12/25
    ジャーナル フリー
    本稿は映画音響と団地という空間に着目して、『クロユリ団地』(中田 秀夫監督、2013 年)の人間と幽霊の境界を論じていく。日本映画史に おいて、団地のコンクリートの壁は物理的な境界として、視覚的に遮る ことはできるが、聴覚的には透過性が高いという特徴を持ってきた。こ れは、音響と物語空間の問題であるとともに、フレームの問題でもある。 この特徴を活用して『クロユリ団地』では、人間と幽霊の会話は常に「フ レーム外」を通してなされ、画面において両者は断絶している。団地の 境界とフレームの境界という二つの境界を通して、人間と幽霊の境界は 「イン」の会話の不可能性として示されているのだ。その中で、人間の明 日香と「イン」の会話をする幽霊のミノルの関係を分析し、明日香が人 間と幽霊の境界を無効化する不気味な存在と化していくことを明らかにし た。そして、その不気味な明日香が「幼さ」を肯定的に捉える女性表象 に対して批評性を持つことを指摘した。
  • 長谷 正人
    年報社会学論集
    2005年 2005 巻 18 号 16-27
    発行日: 2005/08/05
    公開日: 2010/04/21
    ジャーナル フリー
    This paper critically analyzes how the contemporary ‘sociology of culture’ (youth culture theory, media culture theory and consumerism theory, etc.), which have been developed in the postmodern era (1980s), have fallen into a self-alienated situation. The ‘sociology of culture’, whether it is ‘postmodern sociology’ in the 1980s or ‘cultural studies’ in the 1990s that criticized postmodern sociology, both postulated that culture is often alienated from the everyday life of people. In contrast, this author insists that in principle culture should be recognized as a self-alienated activity. Not only do human beings follow their everyday lives as they are but they also desire to enjoy more pleasurable things. Therefore human beings voluntarily destroy and reconstruct their everyday lives. Recognition that culture is a self-alienated activity opens up new possibilities for cutting through cultural estrangement.
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