本論文は,自由画教育運動が展開する前の北海道における図画教育現場の状況を明らかにするための手掛かりを得ることを目的とし,大正2年(1913)に北海道師範学校を卒業した山口庸つね矩のりが,札幌区東北尋常小学校訓導として道内の教育雑誌に投稿した五編の論文に基づき,次の二点を確認するものである。
(1)大正6年(1917)に『北海之教育』に掲載される四編の論文と,大正9年(1920)10月に『北海道教育』に掲載される論文には,臨画に偏る図画教育のあり方を問題視する山口の姿勢があらわれている。
(2)山口は札幌が採用していた国定教科書『尋常小学新定画帖』について,「編纂の精神」と教科書自体を分けて考えていた。山口は五編において一貫して同書の「編纂の精神」すなわち教育的図画の概念を,教授の準拠としているが,その解釈に難しさを感じている。教科書自体については,大正6年(1917)の時点で,扱いづらさを感じている。
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