本稿は「国民
消防
」をキーワードに、関東大震災を契機として警視庁
消防
部に芽生えた防災体制の変遷を分析することで、昭和戦前期の防災像を明らかにするものである。なお「国民
消防
」とは、松井茂が一九二五年に主張したもので、その意義とは、防火の根本問題を国民が自覚し、国民自身が主に火災予防に努めることである。
まず昭和戦前期における
消防
官吏の実態について検討した。
消防
部は一九二五~一九三七年にかけて、従来一般的に浸透していた
消防
事務の範疇を超える事務を積極的に実施した。これを本論文では「
消防
事務積極化」と呼ぶ。昭和戦前期は
消防
部が「
消防
事務積極化」に奔走した時期であった。
次に
消防
部による防災体制の性質と変遷を検討した。
消防
部の防災体制は「
消防
事務積極化」の一つとして存在していた。
消防
部が一九三〇年に非常時火災警防規程を制定したことで、
消防
部に防災体制が芽生えた。これは一九三二~一九三三年に弱体化し、一九三六年から停滞した。防災体制が弱体化した理由は、満州事変が勃発し、国民の防空意識が高まったこと、停滞した理由は、陸軍・東京市に防護団の指導権を取られ「
消防
事務積極化」が後退したことを機に、
消防
部が防災よりも防空を優先するようになったことである。
最後に
消防
部の防災像と昭和戦前期の時代像を明らかにした。
消防
部の非常時災害対策は、常に住民の援助を得ることを前提としていた。これは非常時災害対策が、「
消防
事務積極化」として存在した故に、人に作用する事務である必要があったためである。しかし住民に対する命令権を持っていない
消防
部は、非常時火災警防規程において公共的団体に対する命令権を
消防
署長に付与できなかった。そこで
消防
部は、住民とコミュニケーションをとり、理解を促す形で、「
消防
事務積極化」を促進させた。以上のことから昭和戦前期における
消防
部の防災像は、行政と住民の連携を必要不可欠と考えるものだったといえ、昭和戦前期は行政と住民の協働を重視した防災像が生まれた時代であると考えられる。
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