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クエリ検索: "理性"
83,951件中 1-20の結果を表示しています
  • 壁瀬 灌雄
    密教文化
    1953年 1953 巻 21 号 37-42
    発行日: 1953/02/20
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
  • 小谷 章雄
    日本物理学会講演概要集. 秋の分科会
    1994年 1994.2 巻 4p-YB-8
    発行日: 1994/08/16
    公開日: 2018/03/23
    会議録・要旨集 フリー
  • 合理性,理性,習慣
    稲垣 良典
    科学哲学
    1984年 17 巻 17-28
    発行日: 1984/11/24
    公開日: 2009/05/29
    ジャーナル フリー
  • 丸山 啓輔
    日本橋学館大学紀要
    2004年 3 巻 27-36
    発行日: 2004/03/30
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル フリー
    筆者は,日本経営学会誌第9号にて統合経済合
    理性
    という概念を発表した。統合経済合
    理性
    は,環境性,人間性,社会性,経済合
    理性
    (以上を4つのサブ原理とする)を統合したかたちでの概念としてとらえたものである。しかし,先の論文では,次の諸点を今後の課題として残した。(1)4つのサブ原理の堀り下げ(2)統合経済合
    理性
    の展開 本論文は,上記課題のうち(1)の合
    理性
    の堀り下げ,その一考察を試みたものである。本論文の概要は,次のようなものである。1.辞典から見た合
    理性
    ・・・合
    理性
    をどうとらえているか,合
    理性
    とはどのような意味合いを持っているのか,について辞典を中心にとらえてみた。2.経営上の合
    理性
    の内容・・・ここでは活動的側面からとらえた経営の仕組みおよび経営上における合
    理性
    の内容の明確化を試みた。3.統合経済合
    理性
    とH.A.サイモンの合
    理性
    および前提との関係・・・統合経済合
    理性
    は,意思決定をする場合に配慮すべきものととらえているが,H.A.サイモンの客観的合
    理性
    ,限定合
    理性
    ,実体的合
    理性
    ,手続合
    理性
    ,さらに価値前提および事実前提を吟味し統合経済合
    理性
    との関係を明らかにした。
  • 波多野 隆介, 長谷川 周一, 粕渕 辰昭
    日本土壌肥料学雑誌
    1996年 67 巻 5 号 465-470
    発行日: 1996/10/05
    公開日: 2017/06/28
    ジャーナル フリー
  • 井ノ口 淳三
    近代教育フォーラム
    2008年 17 巻 19-26
    発行日: 2008/09/12
    公開日: 2017/08/10
    ジャーナル フリー
    菱刈会員は、人間にそなわっている動物的なものとしての情念を
    理性
    によって噂制御することが可能なのかという問いをたてた。そして否定的なルターに対して情念を教育可能とするエラスムスや
    理性
    に信頼を寄せるメランヒトンやトマージウスの立場を説明し、情念を制御する教育のあり方を探求している。これを受けて本稿では、まずデカルトの説を紹介し、
    理性
    が情念を制御することは可能であるとするデカルトの立場を確認した。次いでデカルトと因縁が浅からぬコメニウスの
    理性
    についての主張を説明し、
    理性
    が「人間のなかにある神の光」であるとする宗教的立場にデカルトと異なるコメニウスの特徴を見た。そこから
    理性
    と信仰との問題に移行した。「信仰と
    理性
    の対話」は容易ではないが、もしそれが実現すれば現代世界の様々な難問を解決する方向性が見出されるであろう。その時個人の情念の制御という問題も解決の見通しを持つことが可能になるのではあるまいか。
  • 岡本 裕一朗
    哲学
    1996年 1996 巻 47 号 237-246
    発行日: 1996/05/01
    公開日: 2010/01/20
    ジャーナル フリー
    理性
    は、すべての実在 (Realität) である、という意識の確信である。」
    ヘーゲルは『精神の現象学』において、「
    理性
    」をこう定義する。この定義はきわめて有名であり、一般によく知られている。しかし、「よく知られていることは、だからといってよく認識されているわけではない。」一体ヘーゲルはこの命題によって、何を表現しようとしたのだろうか。この場合、「
    理性
    」とは何を意味しているのか。どうして、「
    理性
    」は、「すべての実在である」と言われるのだろうか。
    理性
    」のこの奇妙な定義は、明らかにアリストテレスの所謂「受動
    理性
    」の定義、つまり「魂はある仕方ではすべての存在するものである」に由来する。言い換えると、「あらゆる実在である」という「
    理性
    」の定義は、『デ・アニマ』の「受動
    理性
    」から捉え直されたものなのである。しかし、アリストテレスの「受動
    理性
    」がどうしてここで言及されるのだろうか。そもそも、『現象学』と『デ・アニマ』とはいかなる関係にあるのだろうか。
    ヘーゲルがアリストテレスをきわめて高く評価し、その哲学から強い影響を受けていることは疑えない。このことは、『エンチクロペディー』の最後がアリストテレスの『形而上学』の引用 (ギリシア語原文) で終わっていることだけでも分かる。ヘーゲルはアリストテレスのうちに、自分の哲学の原理を重ね合わせているのである。この点については、従来からたびたび指摘されているが、しかし一歩踏み込んで、その影響関係の内実を具体的に理解することはほとんどなされていない。とりわけ、『精神の現象学』に関しては皆無と言ってよいだろう。しかし、「
    理性
    」という『現象学』の決定的に重要な箇所で、『デ・アニマ』の「受動
    理性
    」が想定されているとすれば、アリストテレスとの影響関係を無視することは不可能だろう。もっと刺激的な言い方をすれば、ヘーゲルの『現象学』の体系構想は、アリストテレスの
    理性
    論 (「受動
    理性
    -能動
    理性
    」の二重性) から根本的に規定されているのではないか。
    本稿は、『精神の現象学』の体系構想を『デ・アニマ』から解明することを課題としている。ヘーゲルが『精神の現象学』を「学の体系第一部」に据えたとき、そこには『デ・アニマ』からの決定的な作用を読み取ることができるだろう。『現象学』の「
    理性
    」の定義が、『デ・アニマ』の「受動
    理性
    」の据え直しであることは、その端的なあらわれである。
    しかし、そもそもヘーゲルの「学の体系」を、どうしてアリストテレスの「
    理性
    」論から理解する必要があるのだろうか。ヘーゲルは、アリストテレスをどう解釈していたのであろうか。アリストテレス解釈はヘーゲルの「学の体系」にいかなる影響を与えたのだろうか。これを具体的に明らかにすることが、ここで遂行される。
  • 谷山 一郎
    日本土壌肥料学雑誌
    1999年 70 巻 5 号 610-612
    発行日: 1999/10/05
    公開日: 2017/06/28
    ジャーナル フリー
  • 前田 哲男
    日本建築学会計画系論文集
    2000年 65 巻 531 号 265-269
    発行日: 2000/05/30
    公開日: 2017/02/03
    ジャーナル フリー
    In order to prepare the theory of architecture for environment, this paper considers the aesthetic judgment which lies in the conscibuness of the harmony of understanding and imagination. As the rehabilitation of sensibility, which is distinguished from five senses, is a matter of great importance, we have to investigate the immanent universality instead of the transcendental universality.
  • 丸山 高司
    哲学
    1988年 1988 巻 38 号 84-102
    発行日: 1988/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 菱刈 晃夫
    近代教育フォーラム
    2008年 17 巻 1-17
    発行日: 2008/09/12
    公開日: 2017/08/10
    ジャーナル フリー
    人間とは、はたして「
    理性
    」的動物なのか、それとも
    理性
    的「動物」なのか。
    理性
    に力点を置くか、動物に力点を置くか。教育をどう捉えて実践するかは、結局、このアクセントの違いに大きく左右されよう。西洋文明の根底にあるキリスト教による教育思想を振り返るに、「神」と繋がる
    理性
    、霊性をそなえるとされる人間が、いかに動物としての自己自身と関係しながら「人間」になれるのか、あるいは、この世を人間化、文明化、道徳化させていくのかが模索されてきた。問題は、人間に元来そなわる、
    理性
    以前の動物的なもの-感情、情感、情動、熱情、情緒、情意、そして情念など-すなわち、からだで感じる「情」と、どう関わるかである。近代教育学のベースにあるキリスト教的な教育論が、情念との関わりのなかでどのように生成してきたのか、主にルターとその周辺(エラスムスやメランヒトンなど)を手がかりに明らかにしつつ、教育思想史を振り返ってみたい。
  • 白井 清恒
    農業気象
    1982年 37 巻 4 号 333-335
    発行日: 1982/03/10
    公開日: 2010/02/25
    ジャーナル フリー
  • 「相互承認」をめぐって
    高田 純
    哲学
    1977年 1977 巻 27 号 149-159
    発行日: 1977/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    ドイツ観念論倫理学の基本性格は、経験的なものから純化されたアプリオリな
    理性
    意志=自由意志をその原理とする点にあるといえよう。カントは、このような
    理性
    意志にこそ、万人を結合する道徳法則の根拠、万人の自由な倫理的共同存在にとっての根本原理が求められると考えた。しかし、倫理的共同存在の実現の問題が具体的に問われるためには、カントにおいて捨象されるのに急であった意志主体(人格)相互のあいだの経験的諸規定があらためてとりあげられ、
    理性
    意志がどのようにしてこれらをつうじて内在的かつ具体的に確立されるかが把握しかえされなければならないであろう。そしてまた、このような過程をへることによって、
    理性
    意志の原理は、経験的なものを外的に規定する形式的原理であることをこえて、経験的なもののなかで作用する生きた内在的形式、活動原理にまで高められることになるであろう。フィヒテを経てヘーゲルに到るドイッ観念論倫理学の歩みは、これらの問題の自覚的追求の過程でもあった。この過程においては、意志相互の具体的な関係と働きかけ(交通)およびその現実的な場としての社会のなかでの意志の
    理性
    的形成(
    理性
    意志の社会的、間主観的基礎づけ)の問題が論究されるとともに、逆にまた、現実社会がこのような
    理性意志の実現として理性
    化、倫理化 (社会の
    理性
    的基礎づけ) される方向へと進んでいく。
    本稿では、ドイツ観念論におけるこのような推移を、とくに、そのさいの考察の結節点としての位置にあると思われる「相互承認Gegenseitiges Anerkennen」概念に着目しつつ、またこの概念を自覚的にとりあげた初期フィヒテとヘーゲルを重点に、概観してみたいと思う。
  • *米川 清
    經營學論集
    2016年 86 巻
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/10/01
    会議録・要旨集 フリー

    サイモンとトゥベルスキー=カーネマンの「限定合

    理性
    」へのアプローチの決定的相違点を明らかにする。また,トゥベルスキー自身も,当初,合理的選択からのシステム的逸脱に対する新古典派的説明を,「見当外れの弁護人」と酷評した。歳月は流れ,トゥベルスキー=カーネマンは,やがて主流派の効用概念の補正の側に宗旨替えをする。完全合理的なはずの人間が犯すエラー研究が標準理論の修正へと向かった時,「限定合
    理性
    」の主張は,主流派の思弁的な領域に埋没した。現在,2つの「限定合
    理性
    」が存在するが,サイモンの側に立ち,トゥベルスキー=カーネマンの「限定合
    理性
    」に批判的検討を加える。

  • 岩城 英規
    印度學佛教學研究
    1990年 39 巻 1 号 88-90
    発行日: 1990/12/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 住江 金之
    日本釀造協會雜誌
    1964年 59 巻 6 号 463-466
    発行日: 1964/06/15
    公開日: 2011/11/04
    ジャーナル フリー
  • (2)下降流条件での触媒式再結合器の水素処理性能の評価
    *野下 健司, 永吉 拓至, 織田 伸吾, 西村 丹子
    日本原子力学会 年会・大会予稿集
    2010年 2010s 巻 F07
    発行日: 2010年
    公開日: 2010/04/13
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では、事故時の格納容器スプレイ流がPAR周囲に下降流を形成した場合の影響を評価するため、風洞試験装置を用いてPAR近傍の下降流速と水素処
    理性
    能の関係について検討した。その結果、(1)直上からの下降流はPAR内部に上昇流を形成し水素処
    理性
    能を向上させる、(2)障害物等がありPAR内部に下降流が形成される場合には特定の風速域で水素処
    理性
    能は低下するものの20%以上の性能は維持する、ことを確認した。
  • 柳瀬 陽介
    中国地区英語教育学会研究紀要
    2001年 31 巻 145-152
    発行日: 2001/10/01
    公開日: 2017/03/01
    ジャーナル フリー
    本論文は、アクション・リサーチの合
    理性
    を明らかにし、その規範と類型を提示することを目的とする。論証としては、社会科学における合
    理性
    の追求を行なったSimon(l996,1997)や、実践状況の解明を目指したSchon(l983)、心に対するアプローチの総括を行なったSearle(l998)、批判的教育研究の重要性を説いたCarr and Kemmis(l986)などの論に基づきながら、アクション・リサーチの合
    理性
    を、アクション・リサーチの四側面(plan, act, observe, and reflect)を捉えるキーワードである「デザイン」「実践」「心」「教育」の点からそれぞれ検討する。それぞれの合
    理性
    を基準の形で明確に示すことによって実験室内実験研究とは異なったアクション・リサーチの規範と類型を呈示する。
  • 安平 哲太郎
    情報知識学会誌
    2009年 19 巻 2 号 195-211
    発行日: 2009/05/16
    公開日: 2009/06/27
    ジャーナル フリー
    情報関連装置への入力以前の問題として、客観的世界に働いている完全合
    理性
    とそれを認識する人間の限定合
    理性
    との関係を議論する。完全合
    理性
    は人間が認識するという立場からは、「2 つの対象を人間がある観点から見た時に、本来同じと認識すべき事、異なると認識すべき事」と表現できる。これは、同時点の別の2 つの対象や、ある時点での対象と経時変化を経た後の同じ対象との間で成立し、異なり方は部分と全体の間で、さらに、経時変化を経る間に外部から働く作用と部分あるいは全体との間で一対一対応である。一方、人間の認識は不完全であり、それ故に限定合
    理性
    といわれる。このうち、特に異なると認識できていない時、対立や矛盾が生ずる事をパラドックスを用いて明らかにする。そして、この限定合
    理性を完全合理性
    に近づけてゆくためには、部分と全体との関係について問題意識を持つ事が重要で、これが概念分析の本質であることを示す。
  • J. McDoWell的「道徳的実在論」の批判的検討
    安彦 一恵
    哲学
    1999年 1999 巻 50 号 61-73
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    或る〈状況〉にあるとき人は何をなすべきか。この問いに答えて行為するのが「道徳」であるとして、それは、その〈状況〉の《価値》的様相に応じて行為するという現象であるとも、あるいは、その〈状況〉に関する《規範》に従って行為するという現象であるとも敷衍できる。しかし、そこでさらに、「道徳」の現象に反省的に、そうした行為はそのまま妥当なものかと問うなら、一つの方向として、そこに《合
    理性
    》があるなら妥当であると次には言うことができる。「道徳哲学」-ないしは「倫理学」-とは、一つの、しかし最も基本的なかたちとして、「道徳」の合
    理性
    を問うものであるとも言える。そこには、「道徳」の正当化として、自ら合
    理性
    の証示を行なうものに加えて、そうした合
    理性
    の証示は不可能だと論証するものも含まれる。こうした作業は、それとして重要だと考えるが、しかしながら我々はここでは、言われるところの「合
    理性
    」が果たして一義的な概念であるのかとの疑問のもとで、基本的に異なる二つの「合
    理性
    」観念が「道徳哲学」において支配しているということを、その背景をなすものから明らかにしたい。そしてそれは、実はこの〈合
    理性
    〉観念の相違こそが、相互対立を含んで様々な「道徳哲学」を展開させているのだと我々はみているからである。
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